現実Frommの逃走

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現実 190315

日記

 今日はローマを観光した。ローマの中にはバチカン市国があって宗教上とても意義深い場所らしい。

 僕自身、宗教にはさっぱり興味がないから行っても、さして意味はないかなと思っていた。けれど、バチカン市国にあるものは全て迫力があって、正にそこにあるということを主張しているように見えた。

 つまり、宗教はフィクションであるが、少なくともバチカン市国においては現実だったと感じた。

 実際問題、ある特定の思想が数百年単位で広範に広まるというのは宗教ぐらいのもので今後でてくるのだろうかと思う。宗教が、なぜ現在におけるまで広まり続けることができたのかという問いに答えることは難しいが、攻略する価値はあるだろう。

 一つの解法としては、当時は宗教での説明で矛盾が生じなかったことが挙げられるだろう。つまり、信じる/信じないという対立ではなく、ただそこには宗教があるのみである。

 また、信じる/信じないという対立にあったとしても、信じた方が明らかに都合が良かったのだと考えられる。何かを説明する際に、一貫性を持って答えることができるというのは非常に気分が良いものだ思われる。

 現代においても、「〇〇のせいで△△が生じた」と信じる機会があれば多くの人が信じてしまうだろう。

 しかし、多くの場合である事象を単一の原因で説明することは現実に即していないと考えられる。その意味で宗教は正しくない。

 一方で、宗教は世界をモデル化したと考えることもできるだろう。科学の発展が仮説とその反証によって行われてきたのであれば、宗教の意義というものは計り知れないだろう。

 宗教のモデル化は直感的には優れたアプローチかもしれない。全て神のせいにするというのはシンプルであるし、極小の例外を除いて間違うことがない。ただし、神によって世界を説明したところでそれ以上の進歩がない。恐らく、その性質が科学とは大きく異なる点であり、現代において科学が勝利している大きな理由だろう。