現実Frommの逃走

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『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ

 

 ネタバレを含みます。

 

 仮に人生の目的が明確ならばどんなに生きやすかっただろう。そう考える人は少なくないように思う。その目的がどんなに残酷なものであっても、生きる価値があると客観的に判断されることは大きな意味を持つこともある。

 本書を読めば、人生の目的が明確な人を創造することができるようになるだろう。ただそれは、一番残酷な方法によってであるが。

 つまり、人生に目的がないのは、人生に目的を探してしまうのは、私達が自由であり、豊かであるからに他ならない。

 日本でも昔は生まれた時から果たすべき役割がしっかりしていただろう。農民の子は農民、武士の子は武士といった具合である。このように、果たすべき役割が明確であることは、個人の幸福度に影響すると聞いたことがある。

 幸福度に良い影響を与えるためには、それぞれの役割が完全に分離されている必要がある。つまり、農民から武士へはなれないし、その逆も然りである。情報元がないのでこれ以上話を展開させないが、自由があることと幸福であることはイコールではない。

 さらに言うならば、この本は一人の人間が人生に折り合いをつけるための文章でもある。人生というものを振り返り、客観的には悪いものだがある意味では良いものであると信じる。推し進めて、「私の人生はこんなにも素晴らしかった。」そのように合理化するための文章である。

 十分に残酷な環境であれば、このような問いを発することもなかっただろうに。キャシーら以外の提供者は人生について考えることはなかっただろう。

 参考になる部分も多いように思う。一番難しい問題に取り組んだキャシーの解法を確認することに他ならないからである。また、キャシーのように他者の優しさに触れて忘れられないほどの感動を覚えることはそう珍しい体験ではなく、共感できる部分も多いだろう。

 本書のルースの役割は、私たちにとってのキャシーに相当するだろう。

 

”あなたたち二人に取り戻してほしいの。わたしがだめにしたものを取り戻してほしい”『わたしを離さないで』P.355

 

 この本を表現するときには、SFと言ってしまえば都合が良い。しかし、SFによくあるようなワクワク感というものは一切ない。そのためにSFと表現することが憚られる。

 SFと純文学の定義は私は知らないし、そもそも完全に分離できるものではないと思う。文章の特徴としては、とにかく脱線が滑らかであることが挙げられる。明らかに今まで語っていた内容とは関係ないことを語り始める場合であってもそれほど違和感を感じない。本来の人間の思考のように無秩序で発散しているように感じる。(当然、全体としてみれば無秩序なんて口が裂けても言えないが)

 

 話題の漫画『約束のネバーランド』と似たような設定ではある。設定を聞いただけでは同じだと思ってしまう人もいるかもしれない。しかし、読めば陰湿なほど暗いのが本書で、ジャンプ特有の明るさがあるのが『約束のネバーランド』である。

 この本の大きな対立としては、人間関係というものは勿論そうであるが、過去と現在の対比が一番大きいと思う。人間関係はその中に含まれている。 

 そうして考えると、今となっては医療に対する批判は勿論、少子高齢化社会についての批判も多分にあるように受け取れる。

 子供と先生、提供者と受益者などに対立があるが、キャシーは常に若い側についていてくれた。読者の味方であり続けた。本書はキャシーが提供者としての役割を果たす寸前で幕を閉じている。対立関係が薄いのはコテージの部分であるが、この章であっても先立つものと残されるものの対比は存在する。

 

 懐古、後悔、そして、克己そんな話だと思う。

 

”「この子らはどう生まれ、なぜ生まれたか」を思って身震いする。”『わたしを離さないで』P.60