現実Frommの逃走

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笑いについて本気出して考えてみた

 

 

 色々な経緯があって、高校生のとき(中学生もか?)にお笑い担当をさせられていたので笑いについて考えることが多かった。そこで、今回は僕なりに「笑い」について書いていきたいと思います。僕は人によって、ボケともツッコミとも言われるので偏りまくった意見にはならないと信じています。

 お笑い芸人の評論家様ではないですので、そういうのが苦手な方でも安心して読むことができます。

 

 僕がお笑い担当をさせられていたという点で、1つ興味深いところは高校1年生の時は学年で5本の指に入るほどの陰気な奴だったということです。また、興味のある方は直接聞いて頂ければ環境がどれくらい恐ろしいのかをお教え致します。

 


 

 

 笑いについて書くからといって、これから読む文章が笑えるかというとそうではないということは付け加えておきます。

 ただ、面白く感じてくれるようには努力して書きますので、どうぞ。

 

 ちなみに僕が、笑いについて考えるようになった時期は2回あって、1回目は高校生の頃、自分で一発ギャグを考える必要があったため、どうすれば面白くなるのかを考える必要があったから。

 2回目は殆ど現在で、ツッコミ=批判という啓示を受けたことに起因します。『一億総ツッコミ時代』という本がえらく話題になったため、この考え方は共有されているものと考えます。

 こういったことが背景にあると、これからの話が少しは分かりやすくなるかもしれません。

 

というわけで恒例の目次です

 

ボケに規定されるツッコミ

ツッコミと批判の違い

面白さとは何か

本当に面白い人は人から好かれている人

 

 

ボケに規定されるツッコミ

 

 ツッコミ自体を笑いと考えている人もたまにいるので、ここは丁寧に書いていこうと思います。確かに、ツッコミのすぐ後に笑いが起きます。その意味でツッコミ=笑い製造機と考えてもいいのかも知れません。しかし、実際はボケの存在なくしてはツッコミが生まれることはなく、ツッコミだけをもって笑いを語るのは殆ど不可能だと考えます。何もないところから笑いの要素を生み出すのはボケで、そこに乗っかるのがツッコミということになるでしょう。

 ボケの敷いたレールの上にツッコミが乗っている。つまり、ボケはツッコミをある程度拘束します。ツッコミの美しさはボケに依拠することは間違いないでしょう。あるボケがあり、それを完全に無視したツッコミ(シュール的な意味で笑いはあるけど)は面白くないのは考えずともわかると思います。

 ボケだけでも、笑いが成立することを示したのが「ハライチ」で笑いを考えるに当たっては非常に重要な芸人であると考えます。

 殆ど、繰り返しの内容になりましたが、この文章においてはツッコミの社会的地位が下がったということだけ認識して頂ければ幸いです。

 

 

お前ってツッコミタイプやんな?

お前ってボケタイプやんな?

 

 まぁ関西人ならどちらか片方に分けられると思うんですけど、大体の傾向としてお調子者はツッコミで、天然系がボケと言われています。

. 僕は、一時期ツッコミタイプと言われることに強い拒否反応を示していました。その理由は前述したとおり、ツッコミは広義の批判だと考えているからです。人は批判する人間に対してあまりいい感情を抱きません。これは、経験的に明らかなことなので敢えて証明はしませんが、知りたいという方はお近くの書店で適当な大衆心理学の本を読めば書いてあると思います。(正確な定義では批判より、非難の方が適切かもしれないですが、伝わりやすさの面から批判という語を用いています)

 ツッコミは相手の言動を大声で否定します。「なんでやねん」「んなアホな」などなど、数えればキリがないほどですね。否定されて好感を持つ人間は少数派なのであって、基本的には嫌われます。しかし、笑いにおいては、否定は許容されその重要な要素として君臨しています。更に言うなら、人に好かれるツッコミというのは多く存在しています。

 この矛盾は興味深いと思います。(思いません?)

 

 

ツッコミと批判の違い

 

 先ほど、ツッコミと批判が似ている事を書きました。ここからは、それを踏まえて何が違うのかを考えてみます。

 簡単でかつ重要な点として、ボケとツッコミの間に信頼関係が気づかれているという点が挙げられます。批判は基本的に他者からされるものであり、そこに信頼関係が気づかれていないのが通常だからです。しかし、ボケ、ツッコミ間では、極めて高度な信頼関係が気づかれていることが芸人の苦労話などを聞いていると理解できます。

 この信頼関係は、イジられ系の人間が見知らぬ人から突然イジられてマジギレするのと共通するものがあります。たまにイジって来る人は、こちら側がどれくらいの寛容さを持っているかも知らない場合があり、そういうこともキレる要因となっています。

 この話は

hozamat.hatenablog.com

この記事とも共通する点があると思うので、暇な方はそちらもどうぞ。

 話がズレてしまったので戻します。

 信頼関係が築かれていることのメリットは、頭を強く叩かれても怒らないとか、否定されまくっても怒らないとかいう表面的な部分でだけではなく、ボケる瞬間に重要な役割を果たします。つまり、ツッコミがどれくらいボケに対応することができるのか?という点においてです。ボケにとって一番恐ろしいことは、ボケがボケと理解されずにスルーされることであり、ボケはボケと認識できるようなボケをツッコミに対してする必要があります。そこで、信頼関係や相手のことを深く知ることが大切になってきます。

 相手のことを知らない場合、一般的な流行りに頼るのが最も安牌だと考えます。そのため、初対面の関西人の会話はそういったものを取り入れたものだと推察します。

 

 もう一つ、ツッコミが批判と違う点は、ボケの機会を与えるという点にあります。批判は被批判者からの言葉を待っていることは少ないと思います。(その場合単に指摘といって差し支えないと感じます)ボケの後のツッコミによって、再度ボケをする機会を作ることができます。この考え方に立つと、ツッコミ<ボケという構図が説得力を増します。

 

 

 

面白さとは何か

 

 と、ここまでお膳立てしてきたので、そろそろ本題に入りたいと思います。笑いについて具体例を提示するのは非常に難しいので、わかりにくくなるかもしれません。予め謝罪しておきます。

 

 ここで、この記事のタイトル「笑いについて本気出して考えてみた」というのを見て、面白いと思って頂いた方は何人かおられると思うんですけど、殆どの方はつまらなく感じていると思います。(僕のボケがつまらないのは自明としても)

 それはなぜかというと、このタイトルがポルノグラフィティの『幸せについて本気出して考えてみた』という歌のタイトルのパクリという事実を知らかったからだと思うんです。まだ、貴方がこのタイトルを見て面白くなかったとしても、面白いのだろうと納得はされたかと思います。

 つまり、笑いには共通認識が非常に重要な意味合いを持つということです。

 

 これ以上具体例を出すのは心苦しいので、面白い出来事に照らし合わせて考えてみてください。

 

 ここからは、ボケからツッコミまでのプロセスを解説します

※あくまで個人の見解です

 

具体的な事象A→抽象化→具体的なボケB→抽象化→具体的なツッコミC

 

ボケがなく、自然現象に対してなどにツッコむときは

 

具体的な事象A→抽象化→具体的なツッコミB

 

漫才などで、初めの具体的な事象がない場合は自明ですが

 

具体的なボケA→抽象化→具体的なツッコミB

 

とこのようなプロセスを経ると考えます。

 

 

「グローバル人材って言葉、ルー大柴が作ったとしか考えられない」tweeted by ハリネジミ

 

という奇跡的に面白い文章があったとします。

 

グローバル人材(具体的な事象)→日本語と英語の組み合わせ(抽象化)→ルー大柴が作った(具体的な自称)

 

したがって、ルー大柴が作ったと言った段階で、抽象化の部分を理解することができます。それを理解できないと笑いから取り残されることになります。

 

 

 繰り返しになりますが、ツッコミは抽象化がどうやって行われたのかを聴衆に提示することになります。そこで、聴衆は理解し納得し笑いが起きると考えています。ツッコミが面白いとされるのはこうした効果によるものだと思います。笑いにおける繰り返しが重要な意味を持つのもここから容易に理解されることと思います。

 つまり、ボケの名手もツッコミの名手も抽象化と具体化が得意と結論付けることができるでしょう。

 聴衆は抽象化、具体化を追体験することによって笑い、笑うことで、追体験できたことを示すことができます。

 ここでも、重要になってくるのは聴衆のレベルであり、どの程度のことまでが共通認識として、換言するなら抽象化され得るのかについて知っておくことが必要になります。わかりきったことに対しては驚きはなく、敢えて理解できたと示す必要はないからです。

 また、同時に次のようなことが言えるかもしれません。笑いが具体化、抽象化を追体験して得られるものであれば、単に抽象的なものを提示することで、聴衆が具体化できたときには面白さを感じることができるのではないか?ということです。

 ここで、僕が言いたいのは、抽象的なこと、一般化されたもの話しているのはそこに何らかの意味を汲み取れれば面白いかもしれないということです。

 

 

本当に面白い人は人から好かれている人

 

 Naverまとめみたいな小見出しですが、気にせず行きましょう。先程までの議論が正しければ、笑うことで共感を示すことができます。共感を示す必要があるのは好意を示す必要があるからと言って良いほど密接な関係があります。興味がある方はお近くの書店で大衆心理学の本を読めば書いてあると思います。

 故に、面白い人間になるためにはどうすればいいか?と訊かれた時に

 

人に好かれる人間になれ

 

というのは何も間違いではなく、適切なアプローチと言えます。

 

(人に好かれるために面白くなろう的な本が巷に散乱しているのは中々面白いことではありますが)

 

 まぁあれですね、そこまで面白い話でもないのに大笑いしてる人見るとこの人あの人のこと好きなんだなぁって思いますね。

 

 逆に、僕があの人のこと嫌いなんだなぁって感じる原因にもなったりしますけど。だから、皆が笑ってるときに笑えないとどこがどうして面白いのか執拗に質問してしまうのかも知れません。

 

 

 

今夜は月が綺麗ですね