現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

期待と信頼

 

 

 

 最近、書こうと考えてた内容に色々な出来事が重なったので、公開してみようと考えました。

  論理構成がガバガバのような気がするんで、論理ガチ勢からしたら読みにくいことだと思います。(今から書きます)

 ここまで来たら頑張って読んでください。

 

 政治家AとBのモデルで一区切りです。それ以降は1つずつ独立した話です。

 

目次

 

期待と信頼の定義

期待の低下の過程

政治家AとBのモデル

人を疑うことについて

1人嫌いな人を見つけたときに分かること

お別れ

 

 


 

 

 A「お前の話は分かりにくい。だから、ありがとう」

 

 B「それは、それはどういたしまして」

 

 

 このAは皮肉ではなく成立するという話。だから、特に違和感がないという人は完全に時間の無駄だから戻るボタンorタスクキル推奨ということで。

 

 僕の話すことは、基本的に極論だと思うから語尾に(諸説アリ)というのを付けて読むぐらいがちょうどいいかも知れない。

 

↑この文章を読んで、感じ方は人それぞれだと思うが大きく分けて以下の4つが挙げられると考える。

 

①何言ってるのかわからねーよふざけんなカス!!!!

②あ、そうですねハイ

③えらく親切ですね

④そんなことぐらい分かっとるわ!舐めとんちゃうぞゴミ!!!

 

  自分がどんなタイプに該当するか一度選んでもらうと、どんな立場の人について書いているかが多少わかりやすくなると思います。

 

 


 

 

期待と信頼の定義

 

 何かを論じるためにはまず定義が重要ということで、定義していきます。辞書を引用してもいいんですけど、パクリに厳しい世の中なので参考にしながら定義します。この話は特に対人関係を想定するので、それも踏まえて。

 

 期待・・・特定人物に何かを望むこと

 信頼・・・特定人物が当然に何かをすると推測すること

 

 強引に言い換えます。

AがBの期待に応えることによってAの次の行動をBがAに信頼する。

 

 つまり、完全な初対面においては期待のみがあり、信頼はない。また、信頼を獲得するには、少なくとも期待されなければならない。

 

 

 

  

期待の低下の過程

 

 幼少期において、人は周りに過保護にされている。期待も信頼も最大の状態である。泣けば、望むものが手に入る。周りの人間は下僕といってもそこまで間違いではないだろう。さらに、多くの大人たちは模範であろうとするため、そういう意味でも過保護であると言える。

 しかし、どこかの国の王でもない限り期待も信頼も低下することになる。それは、環境が変化するというのが全てだろう。

 例えば自分に対して危害を加えようとしたり、自分の周りの人間を虐げられたり、ゴミのポイ捨てを見たり、捨て犬、捨て猫を見たり、約束を破られたりなど(特に多いのは時間についての約束事)

 これは、他者についてのみ適用されるのではなく、自身に対しても適用される。つまり、期待する対象を社会(自分をも含めた)とするならば、自分が危害を加えられなくとも、危害を加えることで社会に対して期待をしなくなるということも十分に考えられる。

 期待や信頼が低下するのは、まず信頼していた人々に裏切られたからであり、それらに対して以前と同じように期待するのはどう考えても合理的ではないからである。

 僕はこうした事象が多すぎて人に期待することができなくなった(too...to的な?)その要因としては殆ど自分であるので自己責任といっていい。

 以前が望みすぎていただけかも知れない。皆が期待してるより、僕は余程大きめの期待をしていたから、同水準まで引き下げた。そう思うことにしている。

 (人に寛容だと言われることが多い人は、この文章を読みながら頭痛くなってくれてたら理解されてるって感じです。)

 

 

 ただ、僕は期待には応えたいと思う。それは、そういう世界を期待しているからだと思う。

 期待感が低いことで利点があるとすれば、できる限り引き下げた期待感を超える行動を目にしたときその存在を本当に大切にしようと思えるところぐらいだと思います。

 例えば、僕に何かして頂いたり、周りの人間を褒めちぎったり、ゴミ拾いを見たり、ペットを拾う少女を見たり、約束を達成してくれたり....

 

 僕が何かすることで、社会に期待したかった。しかし、そうするには僕は余りに不完全すぎたので結局できなかったという感じですね。自分は他人を見るよりも不完全な自分を多く見るしかないというワケ。

 

 

 

政治家AとBのモデル

 

  というわけで、僕は基本的に社会に対しては期待しないし信頼もしないという立場に立ちます。(当然、特定の人物に対して期待、信頼することはあります。)

 そうでない人がいるなら、羨ましい限りです。(寛容さは無いので友達少ないかもしれませんけど)

 

 

 ここで、一旦モデルを考えます。政治家と民衆のモデルです。政治家Aは難しい言葉を使い、政治家Bは分かりやすい言葉を使います。民衆はABの区別がありません。

 

 ここで、民衆に対してアンケートをとります。つまり、どちらに自分たちを代表して欲しいか?という意味のものです。おおよその場合、政治家Bが当選することと考えます。それは、分かりやすいからでそれ以上の理由はありません。

 

 しかし、政治家Bは民衆を舐め切っているとも考えることができます。難しい言葉を使っても理解されない。そうであれば、簡単な言葉だけを用い理解されるようにしよう。と、このように捉えることもできます。

 

 政治家Aは、民衆に期待していると考えることができます。そもそも民衆は選挙に興味があるという前提なので、難しい話をしたとしても理解できるし、ある程度踏み込んだ内容を伝える必要があると考えている。 

 官僚文学とも言われるように、難しい言葉を使うことで曖昧さを残すことができる。確かにそういう側面があることは否定しません、しかし、曖昧にすることだけが難しい言葉の運用方法ではなく、意味を限定することもできるということです。

 むしろ、莫大な数を表現する必要に追われた際に使用される言葉は難しいと考えるのが道筋として妥当かと考えます。

 

 と、ここまで考えたときに、政治家Aは実はものすごく良いやつなのかもしれないという結論に達します。

 

 冒頭の会話、

 

 A「お前の話は分かりにくい。ありがとう」

(貴方の話は難しいです。けれど、僕が理解できると信頼してくれているのですね。ありがとうございます。)

 B「それは、それはどういたしまして」

 (やっぱり分かりにくいですか、伝わらないと意味がないので今度からは難易度を下げます)

 

 ということで、今度はBに皮肉を言わせてみました。

 

 とりあえず本編終了です。お疲れ様です。 

 

 

 

 

人を疑うことについて

 

 僕の身内で六花の勇者ごっこが始まりそうになったので、一応書いておきます。

 

 疑うということは、相手を信頼しないということを示します。

 

 すぐにモデル化します。

①犯人を疑った(☆その光景を見て不信感云々というのは重要だと思う)

②犯人を疑わなかった

③犯人でない人を疑った

④犯人でない人を疑わなかった

 

①④はどうでもいいですね。真実ですから。

問題は②③です。

 

②犯人を疑わなかった

 これは、疑うということをしなかったため、褒められる行動と言えるでしょう。しかし、結果的に犯人なので、犯人が逃げて終わりです。

 

③犯人でない人を疑った

 これは疑ってしまったため、犯人でない人に被害を及ぼした事例です。この場合、大抵は犯人でないということが明るみに出ると考えています。結局、疑った人物が糾弾されます。(疑うことについてはこのケースが圧倒的多数)

 

 ①~④より、疑わないということは、逃げといっても過言ではない。また、疑うということは、事件の責任を自分が負うという意思表明という考えも出来ると思います。

 

 疑うことは、信頼をなくしたという意思表示なので、③の被害者は信頼していただけキレていい。信頼が大きいほど亀裂が走るので注意しましょう。

 (僕としては、疑われたところで特に何も感じないので積極的にどうぞ!)

 

 ここで一つ問題となるのは、「疑う」ことについて、行動として起こさない状態であっても糾弾されるべきかということ。

 心の中で、誰かを疑ったときは一方的に信頼関係を破壊しているわけで自分が勝手に修理して良いのかということです。

 これより、人を心の中で疑った人は殆どが広義の嘘つきと言えるのかも知れません。

 

 

 似たような事例で部活、サークルなどの引き継ぎを考えます

 

①信頼して任せますわ〜

 信頼はいいことですが、信頼する側に責任がなくて本当にクソ

②信頼しない、頑張って引き継ぐ

 信頼しないのは悪いことですが、信頼しない側に責任があってグッド

 

 

みたいな感じです。まぁ好きな方選べばいいんじゃね?って話

 

 信頼するしないは自己満足と言われたらそれまでなので、②を選ぶのが支配するのかもしれません。

 

 

 

 

1人嫌いな人を見つけたときに分かること

 

 僕に人生で久々にキレる案件があった。期待が低いといってもやはり許される者ではないと素直にそう感じた。

 

 嫌いな人(道徳的でない人)を見つけたときに、考えるべきことについて書きます。

 

 嫌いな人にもやはり、人が人間である以上周囲の人々がいるわけで、その人間がどういう人間かについてパターン分けします。

 

①類は友を呼ぶパターン

 クズの周りにはクズ。その周りにもクズ.......

ということで、僕も貴方もみんなクズ!yeah!!happy!!

 

②慈悲深い方々に囲まれている

 良い奴過ぎるから、クズみたいな奴にもきちんと付き合いますよっていう。

 (敢えて付き合う必要がないのでこの可能性は少ないと考える)

 

③クズと会うときはクズで、他の人とは普通

  人として二面性がありますよってだけ。

 

 自分の周りの人間にクズがいない(①不成立)と仮定してさらに考察すると、先ほど③が成立したのと同じように考えることができます。

 つまり、自分がわかる範囲ではクズはいないけど、実際にはクズがいる可能性を認めざるを得ないということですね。

 クズを一人見つけた段階で、人類が全て良い奴という線は消えるので、悲しみに暮れながら空を見上げましょう。

 自分がクズで②を適用できれば、自分にとっては非常に嬉しいと言えるかもしれません。(僕は絶対にイヤですけど)

 

 

 

  結構長くなったんで、分けて書けば良かったと後悔してます(してません)

 

 

 

別れ

  

 SNSが発達したことによって、意識しないといけない大きな点を述べます。

僕も改めて意識したい案件だからです。

 別れというのは、出会う以上仕方ないもので(詩人ではないです)別れの際に想いの丈をぶつける的なことはよく行われています。良い意味でも悪い意味でも。

 SNSが発達していない時代では、ゲーム理論における最後の一手、つまり、裏切ることによって最大の効用を得る状態にあったと思われます。制裁が加えられないと考えて頂ければ大きくは外していないと思います。

 現在は、別れた後でも簡単に情報をやるとりすることができます。

 

 (狭義の別れとは即ち死を意味する ハリネジミ)

 

 つまり、誰がなにをされたかについて克明に不特定多数に伝えることが可能です。

 とすると、別れ際の情報を社会は保持するわけで、思いの丈をぶつけた人は、それ相応のお返しを受けることになります。

 

 嫌いな人を誰かに伝えることは意味あるのか(自己満足ではないのか)ということを考えていましたが、多分、上記のような意味はあります。

 実際にしている訳ではありませんけど、Aを信頼している人に対して

 

「A君はこんなときに、こんなことがあってこうしたんだよ!だから僕は嫌い!なんで君はそんな奴と一緒にいるの????」

 

って言ってもいいんですけど、言わないのは、僕の知らないAの良い部分があると信じているからです。

 

ということで

 

 別れ際に、僕及び周囲の人に何かした人/する人は震えて待て