現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

伝わりようのない主張

 

 論理的でありさえすれば、主張は必ず通る。なんてことを思って生きている人はどれくらいいるのだろうか。

 

 少なくとも私は違う。

 

 むしろ、論理的でない方が伝わることもある。論理的であるとは一般、抽象化することであり、内容が複雑になれば同じように複雑になり、当然論理の飛躍は許されず、一歩ずつ前進していくしかない。

 

 個別具体的な事象に基づいた物語は聞き手が納得しさえすれば、成立し論理的であることは望まれず、論理の飛躍があっても良い。

 

 このあたりが、評論、随筆、小説の決定的な違いともなると考える。

 

人に言いたいことが伝わらない

 

 そう嘆く殆どの人が目指すのはロジカル・シンキングなどの論理的な思考法や記述法であると考える。それだけで、全てが伝わるかのように見える。

 

 


 

  「生物は子孫を残すために生きています」

 

 そう定義された。中学も、高校も。子孫が残せない人は生きる価値がないのだと知った。かといって、生殖能力のない障害者は擁護せよ、と言う。改めて言及するまでもなく矛盾している。

 もし仮に、生物がそう定義されるなら幾らか救われる。定義されていなければどう行動すれば良いかわからないからだ。それに、彼女ができない僕を馬鹿にする人達が理解できないが、正しいのなら仕方ないとでも思える。僕自身は納得しないが、理解することはできたし、それである程度救われた。

 そもそも、僕が彼女なんて要らない!と言ったところで、虚勢であり見栄でしかない。甘んじて受け入れるしか道はなく、それを正当化するための手段として利用せざるを得なかった。

 だが、生まれながらにして生殖能力がない人々はどうなるのだろうか、生まれながらにして、生きることを否定される。彼らに対して人権とかそういった援護が続いているが、実際はそれ以前の問題で、ヒトとして認められる前に、生物としてさえ認められていないのか、とそう思った。

 僕は後悔した。矛盾に気づいているのであれば、定義を受け入れる必要なんてなかったと。自らの救いのために大勢を犠牲にしたようなそんな感覚になった。

 人間には意識がある。それ故、こうも悲しいのだが、解決策を練ることもできる。つまり、定義が成立していないことを何とかして示せばよいのだ。

 

 

 「ヒュームの法則」ーーその言葉を知ったのは大学に入ってからだった。これが利用できるのかは正直よくわからないのだが、「生物は子孫を残すことができる。」という事実が、生物の目的にすり替わっているのではないか?そう思えた。

 そうであるならば、教える義務が有るように感じた。それは、生物の教師へであり、僕を馬鹿にした同級生へであり、そしてなりより、生物と認められない多くの人へ。

 

 手始めに、僕は言う「生物の目的は子孫を残すことではないかも知れないよ」

同級生は答える。「先生と言ってる事が違うし、意味がわからない。」

こうした会話は相手を変え、場所を変え、幾度となく繰り返されたが、最終的に共感を得られることはなかった。

 

 ここに存在している人はある意味洗脳を受けている。ここに存在しているという事実がそれを示している。ここにいるということは親が子孫を残せたということを意味し、子孫を残しやすい遺伝子を保持していることを意味する。それは、良いか悪いかは評価基準ではない。ただ、広まりやすいかのみに焦点が置かれている。

 つまり、「生物の目的は子孫を残すこと」という文を盲目的に信じるという形質が優位に働いている。ある意味障害者だな、と皮肉が好きな僕は心の中でつぶやく。

 

 意識のない生物には届かない。

 

 

 

 

 

奨学金とかいう学生ローン

 

 

 最近?というか単に僕が大学生になってそういうことを考えるようになっただけかもしれないのだが、奨学金を返済することができない人が多くなっているという話をよく聞く。結構いろんなところで聞くのでソースは提示しないことにする(探すのがめんどくさいさい訳ではない)

 

 ここで、奨学金という単語の定義を改めて整理しておく。(wikiを使った)

"能力のある学生に対して、金銭の給付・貸与を行う制度。金銭的・経済的理由により修学困難とされる学生に修学を促すことを目的とすることも多いが、金銭的・経済的な必要性を問わず、学生の能力に対して給付されることもある。通常先進国では奨学金は給付奨学金をさす"

 

仕方ないので更に整理する。

 

①能力のある学生に対して金銭の給付・貸与を行う制度。金銭的・経済的理由により修学困難とされる学生に修学を促すことを目的とする

②金銭的・経済的な必要性を問わず、学生の能力に対して給付されることもある

 

 共通する点は「学生の能力に対して」という点である。学生の能力を担保にお金を貸している状況ということを改めて述べておく。(給付の場合には問題とならない)

そもそも、奨学金(特に①の意味において)は就学困難とされる学生に就学を促すための制度である。そこで、ここでは①における貸与の状況を想定して書く。

 

 想定される状況というのは、市場においては異常な状態であることは理解されると思う。なぜなら、金銭的・経済的に問題がある者に貸与することは返済されない可能性が非常に高いからである。しかし、学生の就学したい意思を尊重するために貸与を行うのである。貸与を受けた学生は返済する義務を負う。普通であれば返済するのは難しいが、この学生は大学に就学し、且つ能力のある学生であるため平均所得を上回る可能性が高い。端的に言うと返済される確率が非常に高い健全な投資先であるのだ。

 上記の例では、貸与する側、される側の利害が一致しており債権が焦げ付くことは少ない。繰り返しになるが、一見担保になるようなものが無くても、学生の能力(=将来性)が担保となりお金を借りることが出来るのである。

 

 


 

 もう一度、話を冒頭に戻すことにする。現在、奨学金が焦げ付くことが問題となっている。ではこれは何故なのか?

 もうほとんど答えは提示したように思う。つまり、日本学生支援機構が能力のある学生に貸与を行っていないということである。この機構から奨学金を借りている人ならわかると思うのだが、第一種と第二種奨学金が存在しており、一と二の審査基準というものは経済的理由によるものが殆どであり学生の能力は余り加味されていなように感じる。これは自分自身や周囲の人間から得た情報なので間違っているかもしれないがとりあえずこういうことにしておく。(補足すると第一種は無利子であり、第二種は卒業時点から利子が付くという違いがある。)

 因みに二というのは申請すれば基本的に通る奨学金である。こうしたことから、日本学生支援機構が学生に対して貸与を行い、結果的に焦げ付いているというのは至極当然の帰結であり、話題になるほど驚くべき点がないように思われる。

 


 

  では、態度を改めて能力のある学生に貸与を行うようにしたとする。こうなれば、奨学金の回収不能というのは少なからず改善されることは間違いがない。しかし、全盛期と比較するとやはり回収率は低下したままであると考える。

 その理由としては、現代が、大学全入時代と呼ばれる時代だからである。大学全入時代が示すことは就職活動においても自分と同じような大学生が多いということである。すなわち、単に大学を卒業したというだけでは付加価値は殆どなく、かと言って大学を卒業していないと取り合ってもくれないという時代だと推察できる。大学卒業ということはステータスではなく、最早前提となっている。

 かつて、有能な学生に貸与するということは保険が二重にかけられていた。それは、有能という点と大学生という点である。しかし、先程も述べたように、現在において大学生という事実には殆ど価値はない。こうすると、平均所得との乖離は縮小し、必ずしも健全な投資先とは言えなくなる。

(大学に入って卒業するまで学生がずっと有能であるならば、保険を二重にかけなくても良いと感じるが、自分の身の回りを考えるに・・・)

 

 


  

 ここで、奨学金の問題について解決策を考えるとすると、貸与をやめる、有能な人物にのみ貸与するということは容易に考えられる。だが、貸与をやめてしまうと大学全入時代に大学に行けないという人間が出てしまうため、やはり貸与であっても継続したほうが良いと考える。(実際は大学に行かなくとも色々就職する道はあるように思われるが、様々な方面から非難され結局は貸与することになると考えるため、結論だけを書いた)

 

 有能な人物を限定することはあまり難しくない。例えば、赤門の周りにいる人は有能である可能性が高い。そういう集団であれば、平均所得からの乖離は他の集団と比べてもずっと大きいと考える。

 結論を述べる。現在の奨学金の体系からはかなり遠ざかってしまうが、大学ごとに貸与し、焦げ付きがあれば、その大学がカバーするという体型を作ればある程度この問題は解決するということである。(これが許されるのかどうかは知らない)

 日本学生支援機構側の目的は恐らく有能であるが大学に通うことが経済的に困難である学生を通わせるということだと推測するので、その目的自体は達成されることになる。

 もう少し詳しく説明すると、大学はどれぐらいの金額を借りるかを独自に決定し、独自の基準で学生に貸与し、回収不能となった分は奨学金事業を通じて確保されたお金を用いてカバーするということだ。

 大学側は自身の学校に有能な生徒があまりいないと考えるならば、奨学金制度には参加できず、そういう大学は淘汰される可能性が高い。(そこに通う学生たちは有能ではなかったのだ。奨学金の定義をもう一度見てもらいたい)大学全入時代であればそういうことが起こっても特に問題はないように感じる。

 この制度になれば、大学側ももう少しきちんと教育しようと感じるだろうし、就活支援もしようと思うだろう。これまでの制度は、リスク分担の観点から見て少し違和感がある。

 

この記事は英語を学んでいる人を馬鹿にするために書かれた物ではない

 

 私は英語が苦手で嫌いです。

 

ただ、英語は出来るに越したことはない。(できない方が良いことなんて殆どないように感じる)

 

 

 皆さんはどうですかね?できるから好きという人もいるだろうし、好きだからできるという人もいると思う。組み合わせを全て列挙する(多分2^3)のは鬱陶しいのでこの辺にしておくけどまぁ色んな人がいますよね。

 この記事は英語に反感を持った人が書いているという点は強調しておきたい。(これだけで、この先の内容はある程度推測されるものと思う)

 

 色んな人がいるからといっても、グローバル化というものは避けられないもので、就活などにおいて英語重視の傾向は一層強まるものと考える。

 

 ただ、グローバル化と共に技術進歩もしている。技術進歩によって他言語を自動的に翻訳するソフトが登場するのはそう遠くない未来のことだと思う。しかし、それはいつ起こるかということは明確ではなく、考慮することは少しやりすぎといった感覚がある。

(考慮する場合、コンピューターにとって変わられない職業を探すのが難しく、英語についてだけでなく、他の能力についても言及しなくてはならない)

  


 

  こういう状況を考えて欲しい

カンボジアに生まれた人とアメリカに生まれた人がいると仮定する。

(あくまで例であり、disではない)

 

貧困な国(カンボジア)は一人あたりGDPが低く、裕福な国(アメリカ)は高い。

この差はそのまま、所得の差に反映される。(三面等価の原則)

 

 

あなたは今、人事を担当している。人事の仕事は優れた人材をできるだけ安価で入手することである。今回の目的はカンボジア語と英語の両方の言語を使える人材を採用することにある。

 

そこに、2人の志願者がやってきた。一人は英語を習得したカンボジア人、もう一人はカンボジア語を習得したアメリカ人である。

 

先ほど述べたように、GDPは所得に直結する。つまり、カンボジア人は低賃金で労働させることができるが、アメリカ人はそうもいかないということである。

 

とすると、基本的に人事が採用すべきはカンボジア人となる。

 

この例から理解されるように、他言語と母国語における賃金の格差によって他言語を習得する意欲が決定されるということになる。

 


 

日本のような先進国の場合、上記の例のアメリカになるということである。

日本人で英語を武器にするということが意味することは、英語圏で日本語を学ぶ人間を相手にするということにほかならない。そして、殆どの場合、賃金の面から言って不利な戦いを強いられている。

 

この競争に勝つためには付加価値を付ける必要がある。

就活という競争で付加価値を付けるために英語を極めるということは、さらに付加価値を付ける必要性に迫られており、大変な覚悟が必要である。

 

(とりわけ、大学生のような平均賃金が高い集団では他言語を学ぶ利点は高卒のような平均賃金が低い集団より少ない)

 

そもそも、グローバル化とは人、物、サービスが国境を越えて~という定義だったと思うので、本来のあるべき姿と言った方がいい。

 

日本の企業がこぞってTOEIC〇〇点以上ということをしているが、これは完全に供給過多の方向へ向かっていくと予測される。(きちんと世界を相手にしている企業であれば)

 

 


 

  結論を言うなら、ある程度の英語が使えるようであれば、それ以上は重視する必要はなく、自己の専門に特化するのが良さそうということである。

 

Q&A

 

Q,英語を学んでいる人の付加価値とは?

A,それは、差別化できればなんでもいい。

そういう意味で大学生が自分の専門を付加価値として英語を武器にするという考え方は理にかなっているのかもしれない。

 

Q,専門的な会話とかコミュニケーションとか速度は大切では?

A,確かに大切だと思う。

ただ、専門的な会話や、速度を重視するなら翻訳家に任せたほうが良くね?

そういったことを軽視しているわけではなく、むしろ重視し、かつ困難であると思っているため、専門家に任せたほうがいい。(真にできるようになるための労力が大きすぎる)

 

Q,自分の専門を極める上で英語必要じゃね?

A,「ある程度の英語」が使えれば~

程度というのは人によって変わるので

英文学が専門なら、そりゃ英語できないとダメだと思うし。

数学者なら数式で語れよってなる。

 

Q,本社が日本にあり、英語も使える人といった場合、日本人が英語出来る方が良くない?

A,採用理由による。

国内のBtoBとかの業務ならそもそも英語殆ど使わないかもしれないし。

暗黙の前提として、他言語は母国語以上に上手くならない。としているけど、そうでないなら日本人である必要はない。むしろコストとして不採用にするべき。

 

Q,賃金に縛られない生き方というものがある

A,そうですね。

賃金が安くても、英語を使って仕事ができることに喜びを見いだせる人はそれでいいと思う。

 

 

というわけで、賃金格差による他言語習得のインセンティブというテーマで書いた。

 

1つの考え方としては割と面白いかと思う。

 

何回でも言うけど、この考えが絶対ではないし、僕は英語を勉強している人を馬鹿にしているわけではない。むしろ尊敬している。

 

英語が出来る人は、英語ができない人がそれを合理化するために必死になってやがると鼻で笑ってくれてこの話はおしまいです。

 

優しい優子の一生


 優子はドジで間抜けです。さらに、記憶力もよくありません。しかし、優しく真面目だったので、嫌われることはなくみんなから愛される存在でした。

 記憶力が悪いといっても優子は家が都市から離れた場所にあり、住みやすい町だったことぐらいは覚えています。 しかし、どういうわけかいつもとは違い今は調子よくポンポンと昔のことを思い出します。何故か強い後悔の気持ちもありますがさっぱり見当もつきません。



  小学生の頃、こんな課題が出ました。
「自分の名前の由来をパパやママに聞いてきなさい。」
名前の由来なんて考えたこともありませんでした。しかし、とりあえず言えるのは優子は自分の名前が嫌いだったということです。それは単純に「優」の文字が書きにくかったことが原因です。親友の未来は同様の理由で自分の名前が好きだと言っているので羨ましく感じます。

 家に着いて真面目な優子は早速、課題に取り掛かります。記憶力が悪いということも早めに済ます理由の一つだと思います。今日は金曜日なので、父が一番暇だと言っている時間でした。父に聞くのが料理を作っている母に聞くより早そうです。
「名前の由来ってなに?」
「それは、お母さんに聞いてくれ」
なんて無責任なんでしょう!優子はそれ以上の返答はせず、母へ聞きに行きました。
「ねぇ、名前の由来教えてよ!」
「それはね、優しい子になって欲しいという願いを込めたのよ」
きちんと答えてくれました。やはりこの人に付いていこうと心に誓います。優しいことはよいことで、期待されているのならそうなろうとも思いました。

 月曜日、名前の由来を発表することになりました。 優子は誇らしく
「私の名前の由来は優しい子になれるようにです」 と答えました。

未来は「未来を見通せる人になれるようにです」 と答えていました。

 名は体を表すとはよく言ったもので思い返してみれば、確かに未来は大きな事件の犯人を何度か当てていたことがあります。このことは、私を含め友達には相手にされなかったので大人も当然このことを知っている人はいません。
その日の放課後、未来は
「もっとキラキラした名前が登場するかも知れないね。そうなると由来を聞いて来い。なんて宿題でなくなるかも。」

 そう言っていました。未来の言っていることはさっぱり分からないので、文節で頷く技術を習得することができました。

 1ヶ月ほど経った道徳の時間では優しさとはどういうことかを学びました。小学校で一番記憶に残っている授業です。なにせ、自分の生きる意味を教えてくれるようなものなのですから。
「自分がされて嬉しいことを相手にしてあげなさい。それが優しさです」
 適当な議論をした後先生はこう締めくくりました。優子は何かがわかったような気がしました。人に優しくすることはとても素晴らしく、やはり良い名前なのだと再認識しました。
「先生は優しくないんだね」
ぼそっと言ったのはやはり未来です。先生は私達の嫌いな課題を毎日出してくる。きっとそういうことが言いたかったのでしょう。しかし、実際どうだったのかは未来にはもう会えないので分かりません。




 月日は流れ、キラキラネームという単語が巷を騒がせている頃、成長した優子と未来は同じ中学校へ進学することになりました。中学校は遠く、電車でないと通うことができません。とはいえ、電車は終点から乗ることができたので確実に座ることができました。

 徐々に満員になる電車の中で、見知らぬおばあちゃんがこちらへ押しやられてきました。きっと誰からも譲られることなくここまでやって来たのでしょう。優子は優しい子です。当然のように席を譲ります。こんなことは中学校へ行く回数だけ起こります。いえ、実際には帰りにも同じことが起こるので殆ど二倍なのでした。
 自分の足腰が悪いならラッシュ時は避けるべきであるし、他の交通機関を考慮するべきではないか。そうも考えられますが、優子は違います。人にされて嬉しいことをするために席を譲ります。

「優子は惨めだね」
「そうなの!私、それしか取り柄がないから。」
「やっぱり、優子は真面目だね」

 確かにこんな会話をしたような気もします。 一人を救うことで一人を救えてもそれ以外を救うことはできない。そんなことを考えていたのもこの時期です。この頃の優子は電車の中で立っている全員が席を寄越せと脅迫しているようにさえ見えていました。そのため、終点から立ち続けて学校まで向かうことにしました。これなら、文句は言われません。優しさを避けるようになってしまいました。罪悪感を感じてしまうからです。

優しいことは良いことであり素晴らしいことであるので、正義です。

しかし、優しさを提供できる場面は日常に溢れ返っています。その全てから請求を受け続けるのは耐え難いことでした。小学生のように非力ならば何もできませんが、中学生の優子には何でもできてしまいます。

「私ってどう見えてるの?このままでいいの?」
「そう、待とう。きっと分かる日が来るよ。」

一瞬の内に全てが理解できるような、そんな響きを持った言葉です。未来は一体どこまで分かっていたのでしょうか?私も、もう少しで分かりそうな気がします。それとも、もう答えは出ているのでしょうか。




 高校生になった優子、やはり電車通学です。これまでと同じように学校へ着くと、お弁当を忘れてしまったことに気づきました。財布も忘れてしまったようで、購買でパンを買うこともできません。我ながら本当に間抜けだと痛感しました。
昼休みになると、先生から呼び出しをくらいました。真面目だけが取り柄なのに呼び出されたのは相当なショックです。どうしてこうなったのか頭の中をどう検索をかけても引っかかる単語すらありません。それは、仕方ありません。優子は記憶力がないのですから。
 理由がわからないのに叱られに行くのは気分が落ち込みます。深呼吸をしてから職員室の扉を開けると、紙袋を渡されただけで解放されました。教室へ戻ってから中身を確認すると、忘れたはずのお弁当が入っていました。父は今日も仕事なのでやっぱり母なのだろうと、高校は結構遠いはずなんだけどなぁと、ここまでの道のりを考えてみました。

 単純な優しさに触れることは余りにも久しぶりで、お弁当を前にして数十秒見つめ合ってしまいました。この光景はクラスメイトからは奇妙に映ったことでしょう。優子はやはり優しさは大切で人を救うんだと理解しました。
 しかし、災難は続くもので、優子はその日の帰り道、ヤンキーに絡まれました。非力なのでどうすることもできず、ただ黙っていることしかできませんでした。苦痛な時間は過ぎるのが遅いです。こうやって記憶を思い出すときでさえ、相当長く感じます。ただ、サラリーマンがやってきて

「離れなさい!」

 こう言ってくれたおかげで、ヤンキー達は逃げて行きました。しかしながら、数十秒後にヤクザのような人を連れ帰ってきて私はリーマンと一緒に絡まれることになりました。 まるで、ドラマのようで立ち尽くしていた私にリーマンは

「早く逃げなさい」

 そう声を掛けてくれました。まるで、ドラマのようで少し笑ってしまいました。その後、走って逃げる途中振り返ってみるとリーマンは正面からボコボコにされていました。何故か背中のスーツが破れていたのできっと同じように誰かを助けてきたのだろうと勝手に推測しました。

  リーマンはその後なにか良いことがあったなら救われるのにな

 良いことをしたら良いことが悪いことをしたら悪いことがきちんとその人に降りかかればいいんだけど。そういうことを考えています。それは、他人にだけ向けられたものなのか自分にも向けられているのかは今になっても分かりません。
 リーマンは優しいし、そういう人にこそ報われて欲しい。そうならば、少なくともあのときに私と出会ってさえいなかったらボコボコにされることもなかったのではないのだろうか。
 人に会っても罪悪感を感じるだけだからいっそのことなるべく人と交わらない生活をした方が良いのではないか。そういう結論に至りました。たとえ、優子が世界で一番優しい人であったとしても、とりあえずこういう選択をしました。このことに関して誰が非難できるでしょうか。悪いことは何一つしていませんし、優子の一生ですから誰も口を挟むことは許されません。一つ言えることは、もし、世界一優しい人が優子であるならば社会は大きな損失をしたということです。




 あぁこれは昨日の出来事です。流石の優子もここからは完全に記憶しています。ただ、記憶しているからといって全てを記述できるというわけではないようです。余りに深い悲しみも、それに起因する行動もきっと本人の口からでさえ語れないでしょう。


 記憶力の悪い優子はこんなタイミングで、最後の瞬間に人生の全てを見る現象のことをゆっくり思い出し始めますが、もう全てが手遅れのようです。

 きっと、優子にとって心を許せる相手とは母のことだったのです。そういうわけで、母の優しさを受けることには罪悪感を感じることはありませんでした。よく考えてみれば甘えすぎていたのだと思います。


 高校二年生になってからは唯一の居場所である家にいることが殆どで、学校へは全く行かなくなりました。簡単に言えばニートとしての生活を送っていたわけです。今日という日はそんな日が始まってから丁度一年が経った日のことです。  
 
二階にある優子の部屋からでも聞こえる声で両親が何か議論をしています。

昔、私に関心がなかった父も一周年記念の今日はどうやら優子に興味があるようです。

母の叫ぶ声が聞こえます。

「なにが優子よ!二度とその名前を口に出さないで!」


好き嫌いをしてはいけないという言説

嫌いな食べ物がある子供がいるとして、あなたが親ならなんて言うでしょう?

「好き嫌いをしてはいけません」

はい。これですね。知ってます。

(そもそも、好きなもの食べてる時も同様のことを言えって感じだけど)

嫌いな食べ物を無理やり食べさせることに何のメリットがあるのか考えてみてもらいたい

水が嫌いなら問題だけど、通常の食べ物なら栄養が偏るという理由は弱いように感じる。 代替される食材が基本的にあるし、栄養バランスを考えるなら代替してあげるべきなんじゃないかとすら思える。

嫌いなもの食べさせるのって、かつてそうされたからとかいう感情的な部分が大半を占めていて、よく考えてみると、そうすべき必然性は乏しい。

嫌いなもの食べられないなら、美味しく食べれる人は美味しく食べることができるという優越感に浸ってくれ、それで満足してくれ。

私が食べると効用が上昇するから貴方も食べるべきみたいな考え方してる人どう考えても今迄殺されなかったのがおかしいと感じるほど

そもそも、美味しいなら嫌いだと思ってる人のものを奪ってあなたが食べる道を選ぶほうが社会全体の効用は上昇するしその方がいい。

好き嫌いをしてはいけないというの、人間にも当てはめられるのかな

もし、この言説が人間にも当てはめられるとしたら、街にあんなにカップルは誕生していないと思うけど

何の感情の起伏もなくフラットに生きろってことに近いことを言っていると解釈する

素直と自己中心的というのは非常に良く似た考え方だと思う

素直と自己中心的ってほぼ等号で繋げられそうな感覚がある。

しかし、素直だと言われて喜ぶ人はいるが、自己中心的だと言われて喜ぶ人はいない。

こちらがどのように受け取るかによって素直に感じるか、自己中心的に感じるかが決まると考える。 つまり、ある特定の人物を見てAは素直な人だと感じて、Bは自己中心的な人だと感じるということが起こりうるということが言いたい。

素直になれ≒自己開示をしろ

というのは自己開示しろ≒自己中心的になれという解釈もし得るということになる。

自己中心的であることを極度に嫌う人間は、自己開示することは稀なのではないだろうか。

なにがって心理テストで「自己開示しましょう!」と言われたとしてもしないにはそれ相応の理由というものがあるわけでお前が知った風な口を効くなといった感じ。

は???素直な人ってすごくいい人じゃないですか!!!どうして自己中なクソ野郎と一緒にするんですか??という問いには適当に答えることにします。

素直の定義は思ったこと相手にフィルターをかけずに伝えることだと思うから

フィルターをかけた時点で、素直と他人から言われたとしても、それは相手の都合を押し付けられているだけで、個人の感情ではない。

自己中心的は素直ではあるけれど、相手を不快にさせることを比較的多く考えてしまう性格だとも考えられる。

結局、快か不快かによって判断されているように感じる。

素直になれというのは、意訳するならば

私にとって都合の良い人間になれ

ということ

やたらネガティブキャンペーンしてる人って結構いる


 前回は少し調子に乗ったので今回は適当に書くことに決めた。 前回のように書くと時間がかかる割に伝えたいことが伝わらないような気がする。

 今回は、やたらに自分のことをマイナス評価する人について考える。 個人的な意見ではあるが、結構見かけるような気がする。意識高い系と同じぐらいかそれよりも多く見られる。  意識高い系はtwitterなどでは割と邪険に扱われているような感覚はあるが、自分を不当に低く評価する人に対してそういった感覚は持たない。両者とも、自分を不当に評価しているという点では違いがないので、この差は意外に思うべきなのかもしれない。





 高校や中学などで、「勉強した?」などという会話を繰り返し聞くことになるが、回答者は殆ど全くやそれに類する言葉を用いる。全く勉強せずに試験を迎えるアホはいない。つまり、嘘をついているわけで、相手もそれは承知していることと考える。(確かに、個人によって勉強をどれくらいすれば勉強したと言えるかは異なると思うが、一般的な範囲で捉え直して会話することぐらい皆できるから考慮しなくていい)  勉強した?と聞いた側が単に安心感を得たいがために聞いていると考えられるため、この回答がベストとも考えられそうだ。

 このような事例のように、自分を不当に低く評価するのならばまだ理解できるが、自発的にネガティブな発言を連発する人については質問に対する回答という形式を採るわけではないので、別の体系であると考える。




 そもそも、ネガる(ネガティブなことをする)人は自身の人間関係をどう考えているのだろうか

 自分がネガティブな発言をするにふさわしいほど劣位であるとすると、周囲の人間はどうしようもないクズに構ってくれる世間的に見て良い人と仮定できる。そこで、ネガる人は周りに不幸を与え続けていると考えることができるため、ネガる人はその理由があるなら、その集団から離脱することで、残されたメンバーの幸福度を上昇させることができるかも知れない。  むしろ、理由がなかったとしても、ネガティブな発言ばかりすることは不幸な感情にさせるのは間違いない。  実際は、優しいアピールするだけで十分な人も多くいるし、そういう関係では共生しているから何の問題もない。(傍から見て気持ち悪く感じる人がいなければ)  一番幸せなのは、自分も含めた全員がクズの集団に属していることだろう。まぁ、その場合、自分に世話を焼いてくれている人のことをクズだと認識しなくてはいけない。 

 意識高い系の援護をしたいわけではないが、意識高い系は方向としては至極真っ当なわけであって、それを非難するのはおかしい気もしている。ネガる人と意識が高い人とを比較するとしたら、私はよっぽど意識高いほうがマシだと思う。  (意識高い系を避難しているのは同様の結果を残せずにただ嫉妬したり、焦燥感に駆られたりしているだけという可能性もある)

無理やりまとめるとすれば、
自分のために相手を利用することがどれだけ許されるのかということ