現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

好き嫌いをしてはいけないという言説

嫌いな食べ物がある子供がいるとして、あなたが親ならなんて言うでしょう?

「好き嫌いをしてはいけません」

はい。これですね。知ってます。

(そもそも、好きなもの食べてる時も同様のことを言えって感じだけど)

嫌いな食べ物を無理やり食べさせることに何のメリットがあるのか考えてみてもらいたい

水が嫌いなら問題だけど、通常の食べ物なら栄養が偏るという理由は弱いように感じる。 代替される食材が基本的にあるし、栄養バランスを考えるなら代替してあげるべきなんじゃないかとすら思える。

嫌いなもの食べさせるのって、かつてそうされたからとかいう感情的な部分が大半を占めていて、よく考えてみると、そうすべき必然性は乏しい。

嫌いなもの食べられないなら、美味しく食べれる人は美味しく食べることができるという優越感に浸ってくれ、それで満足してくれ。

私が食べると効用が上昇するから貴方も食べるべきみたいな考え方してる人どう考えても今迄殺されなかったのがおかしいと感じるほど

そもそも、美味しいなら嫌いだと思ってる人のものを奪ってあなたが食べる道を選ぶほうが社会全体の効用は上昇するしその方がいい。

好き嫌いをしてはいけないというの、人間にも当てはめられるのかな

もし、この言説が人間にも当てはめられるとしたら、街にあんなにカップルは誕生していないと思うけど

何の感情の起伏もなくフラットに生きろってことに近いことを言っていると解釈する

素直と自己中心的というのは非常に良く似た考え方だと思う

素直と自己中心的ってほぼ等号で繋げられそうな感覚がある。

しかし、素直だと言われて喜ぶ人はいるが、自己中心的だと言われて喜ぶ人はいない。

こちらがどのように受け取るかによって素直に感じるか、自己中心的に感じるかが決まると考える。 つまり、ある特定の人物を見てAは素直な人だと感じて、Bは自己中心的な人だと感じるということが起こりうるということが言いたい。

素直になれ≒自己開示をしろ

というのは自己開示しろ≒自己中心的になれという解釈もし得るということになる。

自己中心的であることを極度に嫌う人間は、自己開示することは稀なのではないだろうか。

なにがって心理テストで「自己開示しましょう!」と言われたとしてもしないにはそれ相応の理由というものがあるわけでお前が知った風な口を効くなといった感じ。

は???素直な人ってすごくいい人じゃないですか!!!どうして自己中なクソ野郎と一緒にするんですか??という問いには適当に答えることにします。

素直の定義は思ったこと相手にフィルターをかけずに伝えることだと思うから

フィルターをかけた時点で、素直と他人から言われたとしても、それは相手の都合を押し付けられているだけで、個人の感情ではない。

自己中心的は素直ではあるけれど、相手を不快にさせることを比較的多く考えてしまう性格だとも考えられる。

結局、快か不快かによって判断されているように感じる。

素直になれというのは、意訳するならば

私にとって都合の良い人間になれ

ということ

やたらネガティブキャンペーンしてる人って結構いる


 前回は少し調子に乗ったので今回は適当に書くことに決めた。 前回のように書くと時間がかかる割に伝えたいことが伝わらないような気がする。

 今回は、やたらに自分のことをマイナス評価する人について考える。 個人的な意見ではあるが、結構見かけるような気がする。意識高い系と同じぐらいかそれよりも多く見られる。  意識高い系はtwitterなどでは割と邪険に扱われているような感覚はあるが、自分を不当に低く評価する人に対してそういった感覚は持たない。両者とも、自分を不当に評価しているという点では違いがないので、この差は意外に思うべきなのかもしれない。





 高校や中学などで、「勉強した?」などという会話を繰り返し聞くことになるが、回答者は殆ど全くやそれに類する言葉を用いる。全く勉強せずに試験を迎えるアホはいない。つまり、嘘をついているわけで、相手もそれは承知していることと考える。(確かに、個人によって勉強をどれくらいすれば勉強したと言えるかは異なると思うが、一般的な範囲で捉え直して会話することぐらい皆できるから考慮しなくていい)  勉強した?と聞いた側が単に安心感を得たいがために聞いていると考えられるため、この回答がベストとも考えられそうだ。

 このような事例のように、自分を不当に低く評価するのならばまだ理解できるが、自発的にネガティブな発言を連発する人については質問に対する回答という形式を採るわけではないので、別の体系であると考える。




 そもそも、ネガる(ネガティブなことをする)人は自身の人間関係をどう考えているのだろうか

 自分がネガティブな発言をするにふさわしいほど劣位であるとすると、周囲の人間はどうしようもないクズに構ってくれる世間的に見て良い人と仮定できる。そこで、ネガる人は周りに不幸を与え続けていると考えることができるため、ネガる人はその理由があるなら、その集団から離脱することで、残されたメンバーの幸福度を上昇させることができるかも知れない。  むしろ、理由がなかったとしても、ネガティブな発言ばかりすることは不幸な感情にさせるのは間違いない。  実際は、優しいアピールするだけで十分な人も多くいるし、そういう関係では共生しているから何の問題もない。(傍から見て気持ち悪く感じる人がいなければ)  一番幸せなのは、自分も含めた全員がクズの集団に属していることだろう。まぁ、その場合、自分に世話を焼いてくれている人のことをクズだと認識しなくてはいけない。 

 意識高い系の援護をしたいわけではないが、意識高い系は方向としては至極真っ当なわけであって、それを非難するのはおかしい気もしている。ネガる人と意識が高い人とを比較するとしたら、私はよっぽど意識高いほうがマシだと思う。  (意識高い系を避難しているのは同様の結果を残せずにただ嫉妬したり、焦燥感に駆られたりしているだけという可能性もある)

無理やりまとめるとすれば、
自分のために相手を利用することがどれだけ許されるのかということ  

白馬の王子様症候群というものがあるらしい

 

 
私たちは完璧な愛を創る代わりに、

完璧な恋人を探そうとして

時を無駄にしている。

- トム・ロビンズ -

 

 

 私が最近読む本の殆どがこのようにイカした詩を文章の手前に書いているので、この点をリスペクトした。リスペクトという言葉を使うと実際はただのパクリだが、なんだか許されそうな感じがする。(そして、()を多用するという点も同様にリスペクトすることにする。エクスペクトしてね。)


「Aを世界一幸せにする!!結婚しよう!!!!111」


 一々言わないまでもこれが伝統的なプロポーズの言葉であることはご周知の通りである。高い確率でAは恐らく承諾し、一組のペアが生まれるだろう。
 だが、少し待ってもらいたい。世界一幸せにすることは果たして可能なのだろうか。(その通り、あなたに指摘されるまでもなく私は社会不適合者である。)私の考えでは、70億人の頂点を勝ち取るのはそう簡単ではなく、さらに、Aという最高の相手を見つけてペアになったBが世界一幸せになることはないということを示唆するため、主張しないほうが賢明である。


「Aを幸せにする!結婚しよう!!!」


 まともになった。これで婚約後に債務不履行で糾弾されることはない。(めでたし、めでたし)


 しかし、本当にそうだろうか。結婚して幸せになったペアとそうでないペアがいることを私は知っている。そもそも、あなたがAを幸せを最大化したいと考えるならば、あなたは即座に身を引き、キューピッドとしてAの新しいペアを差し出す方が良いのかもしれない。つまり、


「結婚しよう」


 やはり、変なことは言わない方がよかった。これでいい。(または、「Aを幸せにできるかどうかは分からないが、私はそのために精一杯努力する。幸せを最大化できると願うが、大抵の場合無理だと考えている。それでも良いのなら....」)

 



 ここで、A(あなた)にとっての最高のパートナーについて考えたいと思う。何かを考える場合、言葉を定義する必要があるが、最高のパートナーを定義するのは非常に難しいと考える。しかしながら、簡単に推測できることは、任意のXがそうでない可能性が高いということである。つまり、1/35億で表現される最高のパートナーが現在のパートナーである可能性は非常に低い。(この場合、70億が分母に来ることは珍しい)殆どの日本人は日本語しか上手く操ることができず、その結果、限定された領域でしかパートナーを見つける努力ができない。

 もし、Aが英語を話す人間を指すならば、同じように表現される"あ" や "Ӓ"よりは最高のパートナーとペアになる可能性が高い。(単にコミュニケーションを取れる可能性のある人数が多い)
 
 最高のパートナーとしての要素に同じ言葉を用いるという項目が入っているならばこういった話にはならないことを注意しておく。また、たとえ最高のパートナーでなかったとしても、クリスマスと大晦日を10日程過ぎてしまえば、その時点でのパートナーが最高のパートナーであることが多いとも言えるかも知れない。(女性はクリスマスケーキに例えられ、男は晦日蕎麦に例えられるらしい)つまり、これからコミュニケーションを取って~結婚までという費用と、かつての最高のパートナーを得られたときに得られた収益とが見合わなくなるからだ。

 



 最高のパートナーを見つけるのは不可能だと諦めるのはまだ早い。私はまだ、この言葉を定義したわけではない。
殆どの人が最高だとする世界ならどんなに幸せなことか!
 
 ☆ここからは論理の飛躍があると思う(そして、ここからが本題である)

 生物学的に言えば、恐らく最高のパートナーとは自身(パートナーのことではない)の遺伝子をより多く後世に伝えられることを意味する。(この解釈が間違っていないことを願う)

パートナーには端的に言ってこの2種類がある(当然、ヒトとしての性質を司る遺伝子は共有している)

①多くの遺伝子を共有してる(無性生殖に近い)
②全く遺伝子を共有していない(純粋な有性生殖)

①は自分の遺伝子を後世に伝えるという意味で、一見合理的に見えるが病気などによって一網打尽にされるリスクが高い。

②は一網打尽にされるリスクは低いが、一度伝えられる量がが少なくなってしまう。

①、②共に言い分がある。適当な式を作るならば、伝えられる遺伝子の割合をG、生き残る確率をRとして
①はG*R Gが80Rが50 ②はG*R Gが50Rが80

のように考えてみるとわかりやすいかも知れない。(わかりにくいかも知れない)実際の具体的な値は分からないが、
どちらにもある程度の合理性があると考えることができる。つまり、パートナーがどんな遺伝子を保持していたとしても最高のパートナーになり得るということになる。(遺伝子の共有以外にも遺伝子を後世に伝える遺伝子というものは数多くある。だが、それはここでは考慮しない。すぐ下で考慮している)

 完全に成熟した遺伝子プールでは、遺伝子が長い月日をかけて洗練されている。遺伝子プールは未だかつてないほど最高の状態にある。また、ある特定の遺伝子が現代まで生き残っているということは何らかの重要な戦略を保持していることが想定される。全ての遺伝子はこれまで淘汰されずに残ってきたエリート達だ。したがって、任意のXを選択することで最高のパートナーを発見することができる可能性がある。(オウム返し戦略のみで満たされた集団を考えてみて欲しい)

また、人間は何事にも意味を見出さなくてはいけない性質であるらしい。任意のXで良いならば選択することは非常に難しくなる。(自由研究が如何に夏休みを不自由にしたかを思い出してもらいたい)

こうした仮定が全て成り立っているときには
偶然を運命と名付け、盲目的になることは合理的ではないだろうか

運命に支配された白馬の王子様症候群は、超最先端という考え方ができる。

赤い糸を信じる信じないにかかわらず運命に従うことが合理的な行動である可能性がある。
 


 


 ここまで読んでくれた人は文頭を見た人の1/3になっているだろうか、それとも頭、胴、足に3分割されているだろうか。(0をこの式に使うのはやめて頂きたい。特に割る数)暇つぶし程度にはなったことを期待する。