現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

『楽園のカンヴァス』 原田マハ

 

 美術ミステリーというジャンルらしい。私が積極的にこのような本を手に取ることはないが、面白いと評判なので読んでみた。一言で表現するなら「よくできた本」だった。

 意気込んで読み始めたが、拍子抜けするほど読みやすい本だった。絵画をたしなむ人は難しい言葉を使うのだろうと思っていたが、その心配は登場人物の心理描写であったり、作中の議論において解消されている。絵画について全く知らない読者であっても物語の進行とともに詳しくなっていく。

 名画と呼ばれるものと良書と呼ばれるものに共通点は明らかにあると思う。この本を読んで絵画を嗜むわけではない私であってもそう強く感じた。

 

 "名画はときとして、(中略)人生に思いがけない啓示をもたらしてくれる。

 それが名画が名画たる所以なのだ"『楽園のカンヴァス』p33

 

 

 以下雑感(ネタバレを含みます)

 

『楽園のカンヴァス』が他の本と異なる点、特異性

原田マハの本はこの本しか読んでいないため、単に原田マハの特徴であるかもしれない

 

①美術、絵画が中心のテーマとなっている点

 これは著者の影響が非常に大きいように思う。著者自身がニューヨーク近代美術館に勤務の経歴があることからも特異分野であることが伺える。また、他の本に関しても同じように美術、絵画をテーマにした作品が多い。

 

②ミステリーでありながら謎が明示的に解けない点

 この作品の大テーマは『夢を見た』という作品が誰によって書かれたのかというものである。より正確には、『夢を見た』という作品は何を下敷きに書かれているのか、又は書かれていないのかという問題である。

 この問いに関して、作中で答えは出ていない。ある種、逃げのような見解が提示されているに留まっている。「逃げ」と書いたが悪い意味ではなく、単に積極的に答えをだすための見解ではなかったという意味である。

 ミステリーであるならば謎は解かれなければならない。それが前提であり常識であったが、作中に小説を設けることで謎が完全に解かれなかったとしても読者の腑に落ちる展開にはなっている。

 もし、これが単なる物語であれば曖昧な部分が失われてしまい、釈然としない結末に終わってしまったかもしれない。

 

③絵画と小説の類似点を強調している点

 この本の主人公早川織絵は、著者と同一視してもよいだろう。来歴が酷似しているし、経験したものから物語を作るというのはよくある話だからである。

 文中の一般的な絵画、画家に対する言説を全て小説又は小説家に対応させることは可能だろう。作中の多くの人物とルソーの類似点を見つけることができるが、困難な状況の中で情熱をもって、批判を恐れずに創作するという人物像と一致してしまうのは著者自身ではないかと妄想してしまう。

 

④登場人物が多いが、複雑でない点

 この小説は割と登場人物が多いと思う。しかし、読んでいる中で困難に思うことは少ない。それは恐らく、似た特徴を持つ人物や人間関係がすでに提示されているからだろう。

 

 織絵の子である真絵とバイラ―の孫であるジュリエット

 トム・ブラウンとピカソ、ティム・ブラウンとルソー

 ルソーとヤドヴィガの関係とティムと織絵の関係

 

 上に挙げた以外にも多く存在している。孤立した人格はこの本には存在せず、何らかの類似点、関係性を見て取れる。

 私が特に重要だと考えるのはピカソとルソーの関係に対応するトムとティムの関係である。作中のクライマックスはこれを前提として読むのがよいだろう。

 

 ”これは、ピカソの手による贋作です。それが私の結論です”『楽園のカンヴァス』p365

 

 ピカソは地位が高く、その作品は価値が高い。そのようなピカソの作品を救出するためにルソー(かもしれない)絵画を失っても良いのか。これが作中の一番の関心事である。だが、ティムはそもそもピカソが描いたためにルソーの描いたものではない。つまり、そもそも作者が違うため贋作だと結論付けた。そうすることで、あえて上に描いてある作品を壊す必要がない。

 トムは地位が高い、権限も大きい。そのような人間の役割を果たすためにティムという人間を失っても良いのか。だが、バイラ―はそもそもトムを招待していない。そもそも役者が違うと結論付けた。そうすることで、あえてトムのなりすましをする必要がない。

 

⑤絵画を共有して読書ができる点

 小説というものは基本的にフィクションであるため、イメージを完全に共有することはできない。例えば、青い空、白い雲と書いたところで読み手が想像するものはそれぞれ独自のものだろう。そのように発散したイメージをどのように繋ぎ止めるのか、それが作家の腕の見せ所と考えてもよいだろう。

 一方でこの小説では、絵画というものを読者と共有することができる。当然、完全なフィクションと受け取って頭の中で組み立てるのも良いが、文章と実際の絵画を見比べて、著者との乖離を探ることができる。

 そのとき、絵画を表現されるために用いられる表現は、色彩を帯びる。他の箇所で同様の表現を用いた場合には、同じ色で塗られるだろう。

 ルソーは『夢』の中で仕事しているに違いない。

 この試みは、著者と読者の乖離を埋める手段として非常に有効かもしれない。今まで、創作というものは一方通行であり、読者が積極的に働きかけるということは難しかった。しかし、今回は私ならどのように表現するのかという物差しを用意することができる。その物差しを使って作中をくまなく測定することができる。これは、リアリティに直結する。

 

 

 

”この作品には、情熱がある。画家の情熱の全てが。……それだけです”『楽園のカンヴァス』p368