伝わりようのない主張
論理的でありさえすれば、主張は必ず通る。なんてことを思って生きている人はどれくらいいるのだろうか。
少なくとも私は違う。
むしろ、論理的でない方が伝わることもある。論理的であるとは一般、抽象化することであり、内容が複雑になれば同じように複雑になり、当然論理の飛躍は許されず、一歩ずつ前進していくしかない。
個別具体的な事象に基づいた物語は聞き手が納得しさえすれば、成立し論理的であることは望まれず、論理の飛躍があっても良い。
このあたりが、評論、随筆、小説の決定的な違いともなると考える。
人に言いたいことが伝わらない
そう嘆く殆どの人が目指すのはロジカル・シンキングなどの論理的な思考法や記述法であると考える。それだけで、全てが伝わるかのように見える。
「生物は子孫を残すために生きています」
そう定義された。中学も、高校も。子孫が残せない人は生きる価値がないのだと知った。かといって、生殖能力のない障害者は擁護せよ、と言う。改めて言及するまでもなく矛盾している。
もし仮に、生物がそう定義されるなら幾らか救われる。定義されていなければどう行動すれば良いかわからないからだ。それに、彼女ができない僕を馬鹿にする人達が理解できないが、正しいのなら仕方ないとでも思える。僕自身は納得しないが、理解することはできたし、それである程度救われた。
そもそも、僕が彼女なんて要らない!と言ったところで、虚勢であり見栄でしかない。甘んじて受け入れるしか道はなく、それを正当化するための手段として利用せざるを得なかった。
だが、生まれながらにして生殖能力がない人々はどうなるのだろうか、生まれながらにして、生きることを否定される。彼らに対して人権とかそういった援護が続いているが、実際はそれ以前の問題で、ヒトとして認められる前に、生物としてさえ認められていないのか、とそう思った。
僕は後悔した。矛盾に気づいているのであれば、定義を受け入れる必要なんてなかったと。自らの救いのために大勢を犠牲にしたようなそんな感覚になった。
人間には意識がある。それ故、こうも悲しいのだが、解決策を練ることもできる。つまり、定義が成立していないことを何とかして示せばよいのだ。
「ヒュームの法則」ーーその言葉を知ったのは大学に入ってからだった。これが利用できるのかは正直よくわからないのだが、「生物は子孫を残すことができる。」という事実が、生物の目的にすり替わっているのではないか?そう思えた。
そうであるならば、教える義務が有るように感じた。それは、生物の教師へであり、僕を馬鹿にした同級生へであり、そしてなりより、生物と認められない多くの人へ。
手始めに、僕は言う「生物の目的は子孫を残すことではないかも知れないよ」
同級生は答える。「先生と言ってる事が違うし、意味がわからない。」
こうした会話は相手を変え、場所を変え、幾度となく繰り返されたが、最終的に共感を得られることはなかった。
ここに存在している人はある意味洗脳を受けている。ここに存在しているという事実がそれを示している。ここにいるということは親が子孫を残せたということを意味し、子孫を残しやすい遺伝子を保持していることを意味する。それは、良いか悪いかは評価基準ではない。ただ、広まりやすいかのみに焦点が置かれている。
つまり、「生物の目的は子孫を残すこと」という文を盲目的に信じるという形質が優位に働いている。ある意味障害者だな、と皮肉が好きな僕は心の中でつぶやく。
意識のない生物には届かない。