現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

成功と確率そして挫折について

 ある目的を達成しようとして努力する。あなたがどれだけ努力しようとも、成功する確率は100%にはならない。確かに、限りなく100%に近づけることはできる。

 小学生のテストを考えてみよう。このとき、成功をわかりやすくするために100点をとることとする。

 テストで100点を取るために必要なのは勉強である。100点を取ろうと思って努力する。テスト範囲を考え、数日間の勉強を行う。そうしてテスト当日を迎える。

 テストで出題される問題はテスト範囲という集合の中の要素である。そのため、全体をくまなく勉強すれば理論上は100点が取れる。しかしながら、100点を必ず取れるわけではない。つまり、失敗することは往々にしてある。それは以下の要素による。

 ⓪十分な努力をしていなかった。もしくは、努力していなかった。

 ①努力すべき方向を間違えていた(テスト範囲の勘違い)

 ②努力する方法を間違えていた(効率の悪い勉強方法をしていた)

 

 このように、努力と成功は確実性によって結びついているのではなく、不確実性によって緩やかに連関しているとみなすのが普通である。

 困難な目的を掲げれば掲げるほど、成功確率は低くなるというのは皆さんご周知のとおりである。一方で、適切な努力さえすれば成功するという言説もある。しかし、これは努力すれば成功確率が極めて1に近づく例にしか取り組んでいなかった。もしくは、たまたま成功が続いていたと考えるべきだろ。もちろん、行動する人間によって世界は姿を変える。

 

 成功はあくまで確率だと述べたが、反対の意味で確実なときもある。すなわち、「いくら適切な努力をしても成功しない」場合である。このような事象は多くはないが確かに存在する。そのほとんどは一般的ではなく、個々人に固有のものである。

 こうしたときに、失敗する要素というのは上記に追加して

 ④初めから成功しなかった。(努力しても意味がなかった)

 という原因を考えなければならない。例えば、医学部受験する女性などが挙げられるだろう。

 

 ところで、挫折という言葉がある。これは、目標を達成できなかった場合に使う言葉だそうだ。私は、厳密な意味での挫折は④の意味として使うべきだと思っている。

 一般に挫折という語を使う人間は、成功が単に確率の結果であることを認めず、適切な努力をしさえすれば絶対に成功すると信じているように見える。⓪、①、②を挫折として述べる人間のことは私は嫌いだ。単にあきらめたと言えばいい。そして、あきらめることは何も悪くない。人生の時間は限られているのだから。

 一般的な挫折の考え方は、私と共通しているものもある。すなわち、失敗したとしても、確率の問題なのであって途中であきらめなければ成功する確率があるという事実である。

 では、いつ成功するための努力をやめるのか。つまり、「人が挫折するのか」であるが、努力しても成功しないと理解したときではないだろうか。

 これを説明するのは非常に難しい。ほとんどが属人的な理由からであり、成功しないことを見抜けなかった落ち度も証明する必要があるためである。

 

 

 

 

『異形の愛』 キャサリン・ダン

 

 有名な小説ではあるらしい。ただ、人に勧められるものではない。そういう触れ込みがあったので読んでみた。レビューを見てみると「長い物語」とあるものがあった。確かに長い本であるが、後半の1/3はすんなりと読むことができた。

 物語の背景が一般常識とかけ離れているために読むのに苦労するということだと思う。後半になってくると読者も本の世界観になじんでしまう。

 それは、読者自身の一般常識が揺らぐということに他ならない。

 筋が通っている話では合った。しかしながら、(世間一般において)論理的であることと正しいということは異なっているということを痛感させられる。

 筋が通ってさえいれば、結論がどのようなものであっても受け入れるというものが素晴らしい人間であると思っている。しかし、多くの人間は導かれた結論が余りに悲惨であるならば、受け入れない。ともすれば、そのような思考をする人間を糾弾しさえする。(『たったひとつの冴えたやりかた』を読んで結末が想像できた人など)

 その意味でこの本を通して、自身の理解を超えた想像力に触れるというのは大事かもしれない。(一般的な人間はこの本を読まないし、価値観が揺らぐこともないだろう)この本を読むという段階でかなりフィルタがかかっているし、この本の評価が高いことも頷ける。

 タイトルにあるように愛がテーマであることは間違いない。しかし、世間のフツウとギーク達の距離感もテーマであるように感じる。(このタイトルは歪んだ愛、と歪んだ子供達をかけているだろう)

 普通とはなんなのかという問いは、社会不適合者の皆さんなら一度は抱いたことがあるだろう。自分が悪いのか、世界が悪いのか(主語が大きい時は大抵調子が悪いだけなので休んだ方がいい)という問いは、答えるのが難しい。

 そもそも、一定の思考力があれば全ての間違いを自分の責任に帰することは容易である。すなわち、自分が悪いという結論ありきで論を構成することはあまりにもたやすいのである。 この点は、精神患者に頭の良い人が多い、世間と乖離した人が多いという誤解につながっているだろう。

 私が思うに、世間の人々とは視野狭窄で世の中を公平に観察できていない。

 ただ、それが愚かで論理的に間違いであってもそのような人々が多数派である以上、それが正解なのである。この本は、社会のはみ出し者にとって有益であり、はみ出し者の気持ちを少しでも理解したいと望む者にとって宝になるだろう。

『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ

 

 ネタバレを含みます。

 

 仮に人生の目的が明確ならばどんなに生きやすかっただろう。そう考える人は少なくないように思う。その目的がどんなに残酷なものであっても、生きる価値があると客観的に判断されることは大きな意味を持つこともある。

 本書を読めば、人生の目的が明確な人を創造することができるようになるだろう。ただそれは、一番残酷な方法によってであるが。

 つまり、人生に目的がないのは、人生に目的を探してしまうのは、私達が自由であり、豊かであるからに他ならない。

 日本でも昔は生まれた時から果たすべき役割がしっかりしていただろう。農民の子は農民、武士の子は武士といった具合である。このように、果たすべき役割が明確であることは、個人の幸福度に影響すると聞いたことがある。

 幸福度に良い影響を与えるためには、それぞれの役割が完全に分離されている必要がある。つまり、農民から武士へはなれないし、その逆も然りである。情報元がないのでこれ以上話を展開させないが、自由があることと幸福であることはイコールではない。

 さらに言うならば、この本は一人の人間が人生に折り合いをつけるための文章でもある。人生というものを振り返り、客観的には悪いものだがある意味では良いものであると信じる。推し進めて、「私の人生はこんなにも素晴らしかった。」そのように合理化するための文章である。

 十分に残酷な環境であれば、このような問いを発することもなかっただろうに。キャシーら以外の提供者は人生について考えることはなかっただろう。

 参考になる部分も多いように思う。一番難しい問題に取り組んだキャシーの解法を確認することに他ならないからである。また、キャシーのように他者の優しさに触れて忘れられないほどの感動を覚えることはそう珍しい体験ではなく、共感できる部分も多いだろう。

 本書のルースの役割は、私たちにとってのキャシーに相当するだろう。

 

”あなたたち二人に取り戻してほしいの。わたしがだめにしたものを取り戻してほしい”『わたしを離さないで』P.355

 

 この本を表現するときには、SFと言ってしまえば都合が良い。しかし、SFによくあるようなワクワク感というものは一切ない。そのためにSFと表現することが憚られる。

 SFと純文学の定義は私は知らないし、そもそも完全に分離できるものではないと思う。文章の特徴としては、とにかく脱線が滑らかであることが挙げられる。明らかに今まで語っていた内容とは関係ないことを語り始める場合であってもそれほど違和感を感じない。本来の人間の思考のように無秩序で発散しているように感じる。(当然、全体としてみれば無秩序なんて口が裂けても言えないが)

 

 話題の漫画『約束のネバーランド』と似たような設定ではある。設定を聞いただけでは同じだと思ってしまう人もいるかもしれない。しかし、読めば陰湿なほど暗いのが本書で、ジャンプ特有の明るさがあるのが『約束のネバーランド』である。

 この本の大きな対立としては、人間関係というものは勿論そうであるが、過去と現在の対比が一番大きいと思う。人間関係はその中に含まれている。 

 そうして考えると、今となっては医療に対する批判は勿論、少子高齢化社会についての批判も多分にあるように受け取れる。

 子供と先生、提供者と受益者などに対立があるが、キャシーは常に若い側についていてくれた。読者の味方であり続けた。本書はキャシーが提供者としての役割を果たす寸前で幕を閉じている。対立関係が薄いのはコテージの部分であるが、この章であっても先立つものと残されるものの対比は存在する。

 

 懐古、後悔、そして、克己そんな話だと思う。

 

”「この子らはどう生まれ、なぜ生まれたか」を思って身震いする。”『わたしを離さないで』P.60

 

 

 

『楽園のカンヴァス』 原田マハ

 

 美術ミステリーというジャンルらしい。私が積極的にこのような本を手に取ることはないが、面白いと評判なので読んでみた。一言で表現するなら「よくできた本」だった。

 意気込んで読み始めたが、拍子抜けするほど読みやすい本だった。絵画をたしなむ人は難しい言葉を使うのだろうと思っていたが、その心配は登場人物の心理描写であったり、作中の議論において解消されている。絵画について全く知らない読者であっても物語の進行とともに詳しくなっていく。

 名画と呼ばれるものと良書と呼ばれるものに共通点は明らかにあると思う。この本を読んで絵画を嗜むわけではない私であってもそう強く感じた。

 

 "名画はときとして、(中略)人生に思いがけない啓示をもたらしてくれる。

 それが名画が名画たる所以なのだ"『楽園のカンヴァス』p33

 

 

 以下雑感(ネタバレを含みます)

 

『楽園のカンヴァス』が他の本と異なる点、特異性

原田マハの本はこの本しか読んでいないため、単に原田マハの特徴であるかもしれない

 

①美術、絵画が中心のテーマとなっている点

 これは著者の影響が非常に大きいように思う。著者自身がニューヨーク近代美術館に勤務の経歴があることからも特異分野であることが伺える。また、他の本に関しても同じように美術、絵画をテーマにした作品が多い。

 

②ミステリーでありながら謎が明示的に解けない点

 この作品の大テーマは『夢を見た』という作品が誰によって書かれたのかというものである。より正確には、『夢を見た』という作品は何を下敷きに書かれているのか、又は書かれていないのかという問題である。

 この問いに関して、作中で答えは出ていない。ある種、逃げのような見解が提示されているに留まっている。「逃げ」と書いたが悪い意味ではなく、単に積極的に答えをだすための見解ではなかったという意味である。

 ミステリーであるならば謎は解かれなければならない。それが前提であり常識であったが、作中に小説を設けることで謎が完全に解かれなかったとしても読者の腑に落ちる展開にはなっている。

 もし、これが単なる物語であれば曖昧な部分が失われてしまい、釈然としない結末に終わってしまったかもしれない。

 

③絵画と小説の類似点を強調している点

 この本の主人公早川織絵は、著者と同一視してもよいだろう。来歴が酷似しているし、経験したものから物語を作るというのはよくある話だからである。

 文中の一般的な絵画、画家に対する言説を全て小説又は小説家に対応させることは可能だろう。作中の多くの人物とルソーの類似点を見つけることができるが、困難な状況の中で情熱をもって、批判を恐れずに創作するという人物像と一致してしまうのは著者自身ではないかと妄想してしまう。

 

④登場人物が多いが、複雑でない点

 この小説は割と登場人物が多いと思う。しかし、読んでいる中で困難に思うことは少ない。それは恐らく、似た特徴を持つ人物や人間関係がすでに提示されているからだろう。

 

 織絵の子である真絵とバイラ―の孫であるジュリエット

 トム・ブラウンとピカソ、ティム・ブラウンとルソー

 ルソーとヤドヴィガの関係とティムと織絵の関係

 

 上に挙げた以外にも多く存在している。孤立した人格はこの本には存在せず、何らかの類似点、関係性を見て取れる。

 私が特に重要だと考えるのはピカソとルソーの関係に対応するトムとティムの関係である。作中のクライマックスはこれを前提として読むのがよいだろう。

 

 ”これは、ピカソの手による贋作です。それが私の結論です”『楽園のカンヴァス』p365

 

 ピカソは地位が高く、その作品は価値が高い。そのようなピカソの作品を救出するためにルソー(かもしれない)絵画を失っても良いのか。これが作中の一番の関心事である。だが、ティムはそもそもピカソが描いたためにルソーの描いたものではない。つまり、そもそも作者が違うため贋作だと結論付けた。そうすることで、あえて上に描いてある作品を壊す必要がない。

 トムは地位が高い、権限も大きい。そのような人間の役割を果たすためにティムという人間を失っても良いのか。だが、バイラ―はそもそもトムを招待していない。そもそも役者が違うと結論付けた。そうすることで、あえてトムのなりすましをする必要がない。

 

⑤絵画を共有して読書ができる点

 小説というものは基本的にフィクションであるため、イメージを完全に共有することはできない。例えば、青い空、白い雲と書いたところで読み手が想像するものはそれぞれ独自のものだろう。そのように発散したイメージをどのように繋ぎ止めるのか、それが作家の腕の見せ所と考えてもよいだろう。

 一方でこの小説では、絵画というものを読者と共有することができる。当然、完全なフィクションと受け取って頭の中で組み立てるのも良いが、文章と実際の絵画を見比べて、著者との乖離を探ることができる。

 そのとき、絵画を表現されるために用いられる表現は、色彩を帯びる。他の箇所で同様の表現を用いた場合には、同じ色で塗られるだろう。

 ルソーは『夢』の中で仕事しているに違いない。

 この試みは、著者と読者の乖離を埋める手段として非常に有効かもしれない。今まで、創作というものは一方通行であり、読者が積極的に働きかけるということは難しかった。しかし、今回は私ならどのように表現するのかという物差しを用意することができる。その物差しを使って作中をくまなく測定することができる。これは、リアリティに直結する。

 

 

 

”この作品には、情熱がある。画家の情熱の全てが。……それだけです”『楽園のカンヴァス』p368

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会人に必要なスキル(新卒2年目の雑感)

 

 高校生における必須スキルは、英数国である。これに異を唱える者は少ないだろう。

では、社会人における必須スキルはなんだろうか……?この考察は、学校の勉強は社会人になってから役に立つのか(評価されるのか)という問題にも一定の回答を与えることとなる。

 

 結論から言うと、英語、Excel、会計だと考えられる。

では、なぜこれらの能力が必要とされるのか、それを説明していく。

まず、英語である。この能力が必要となるのは入社時である。

 

この能力は目上の人間から一目置かれるために必要である。

一方で、英語ができたくらいで一目置かれないのであればそれは入社条件である。

 

 一目置かれる必要があるのはなぜか。上司や同僚に「仕事をさせてみたい」と思ってもらうためである。それが失敗しているところを見たいという動機であったとしてもである。どんなに優秀な人であっても、仕事をしなければ、仕事ができるということを認めさせることができない。つまり、英語のスキルとはスタートラインである。

 しかしながら、英語に限らず目上の人に一目置かれる能力というのは無数にあるだろう。英語である必然性はあるのか?という問いは至極当然生じる。

 英語である必然性はある。必然性があるということが共有されているのが理由の一つである。これにより、「○○ができます。」という主張をした際に、なぜ○○をしたのですか。という無用なやり取りをしなくて済む。

 二つ目の理由として、上司や同僚が前提を共有しているからである。英語を勉強しなくてはいけないというプレッシャーを多くの人が身近に感じざるを得ない状況になっている。そのため、重役がどれだけの努力が必要かを具体的にイメージすることができる。

※上司や同僚と前提を共有し同じ景色をみるということは社会人にとって一番必要な振る舞いであると考える。

 

 三つ目の理由として、将来的に上のポストへ就くために要件として課される場合も多いためである。いつかはしないと頭打ちである。

 総合的に見て、した方が良いという前提のもとに成り立っている。実際に仕事で必要かは置いておいてである。こういったものに取り組む目的を考え出すとドツボに嵌るが、周知されているということを前提に論を進める解決できる問題でもある。

 

 次に、Excelである。

 

この能力は社内で仕事ができると評価されるために必要である。

 

 英語ができるから仕事を振られたとする。この仕事は大したことのない単純作業だろう。だが、この単純な作業を効率よくこなすことで仕事ができるという信頼を勝ち取ることができる。そして、次の面白い、大きな仕事を振られる準備ができるのである。

 単純作業が効率的にできることは非常に稀有な才能であり、会社は重宝してくれるだろう。ほとんどの仕事は単純作業である。むしろ属人化を防ぐために単純化することが望ましい。

 今まで時間をかけていたことを新入りがパパっと改善してしまったら、一目置かざるを得ないだろう。

 

 最後に、会計である。

 

この能力は経営層と対等以上に渡り合うために必要である。

 

 これは、Excel職人として終わるか、経営層の仲間入りを果たすかということを言っている。上司と同じ景色を見るのは前提であるが、いずれ上司にも見えていない遠くを見ることが必要となるだろう。(体育会系にはここまでの能力は求められていない)社長に経営で意見を述べることができる人間を目指す必要がある。それにはなんといっても会計だろう。

 

 上記の能力があれば、コミュニケーションスキルなんてものは不要である。仕事ができる人間に人は集まってくるからである。

 

優れた社会人とは、

上司が喜ぶときに笑い、しかしながら上司が悲しむときに嘲笑する者である。

これは上司と同じ景色を見ながら、上司には見えない景色までも洞察する者のことである。

 

 

 

企業におけるコミュニケーションとは

 

 

①上司と同じ方向を見るために

 

②各人の前提を共有するために

 

 

必要なスキルであると思う。

 

必要であることは語られても何のためのスキルかは語られない。そのため、私には極めようとは思えなかった。

 

何にせよ目的が必要である。

それ故に文頭の宣言は一種の折り合いである。

 

現実20200419

 

 

 

 とはいっても、現実というのはコロナ一色である。コロナコロナとニュースで言っている。ここでどうしても考えてしまうのは、人と接しなくてもストレスを溜めないというのは稀有な才能であるということである。

 私自身インドアの極みのような性格のため、一か月間家から出なかったこともあるくらいである。しかし、一般の人々にとってそれはかなり難しいことだとよくわかった。

 家にいるとかなりいろんなことを考えてしまう。時間があるからである。これまでは、スノボに連れて行ってもらっていたがシーズンが終わったため、それもなくなってしまった。(実際は、鎖骨を骨折して救急車沙汰になったためでもある)

 仕方なく英語の勉強をしている。やはり向いてはいないのだけれど、以前より苦手意識が少ないような気がしている。というのも、全ての学力が低下している現在、一番落ち幅少ないのが英語であるからである。幸か不幸かわからないが。

 ただ、英語には学問特有の腑に落ちる感覚があまりにも少ない。「これがこうなってこう」というようなものである。私はこの感覚が好きだから勉強をしていた。

 英語はテクニック&暗記である。それ以外のものは要求されていない。それだけ愚直に時間をかけることができるかということに全てがかかっているような気がする。

 まぁどのような教科にも言えることだが、教える人間が余りにも下手である。

 

 

 教えるといえば、派遣の教育係をしている。(3か月ぶり2度目)2年目の人間に教育をさせるなよという気持ちはかなり強いのであるが、刺激がない毎日だったので総合してうれしい話ではある。

 教えるという行為はある程度の上下関係があって初めて成立するものであるということを痛感している。厳密には上下関係というよりも教える側の確立した立場が重要である。私は自身の業務についてどれほど理解しているかという点、社会人としての規則をどれだけ理解しているかという点に一切の自信がない。

 そのような人間は物を教えることができない。曖昧ななにかを伝えるに留まる。これでははっきり言ってなんの効果も期待できない。

 幻想でもよいので教える側には自信が必要である。その点、これまでの教育者というのは非常に優れていたと言えるだろう。

 もう少し、対象の人間と認識を合わせる必要がある。今回の相手はできる側の人間だと思う。そのため、任せている部分が大きい。私が彼女に対して媚も売っていない。それは彼女にとって必要ないものだと考えたから。それが放任しているとみなされたのであろう。なんと難しい話だろう。

 

 

 会社はベストシナリオを描いているように見える(コロナウィルスのおかげで人と人が出会わなければならないことは非常に少ないことが可視化されている)これまでは自動車などが主要な産業であったが、移動するという考え自体を再考しなければならないと思って就活していた。その認識で入社したため、今年度も業績は良さそうである。

 あとは自身の未来があり、待遇に反映されれば言うことがないのだが。

 総じていえば会社に不満はない。ただ、刺激の足りない毎日を送るのに飽きてきたというだけであろう。いつものことである。飽きた時のために、時間が確保できる道を選ぶというのは高校からの自分の道しるべである。

 

 

 

 少なくとも、新聞を読んで情報を入手する必要がある。やはり、世間からずれていくのを看過しているといずれ大きなしっぺ返しを食らう。自身の先見性をもう少し信じた方がいい。

 最近もう少し頭良くなりたいという欲求がでてきたのは良い傾向だと思う。一度は捨てた考えであるが、実績から言って一番向いていることである。

 

 コロナウィルスが収束したら国立科学博物館へ行ってみたい。

 強そうな人間と仲良くなりたい。

 

 

 新しい世界を見たい。自信を取り戻したい。