現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

この年で多くを失いながら手に入れたもの

 

 

この数年間は原因不明(諸説あり)の体調不良のため、寝ていることが多かった。また、外へ出て何かしようという気にもならなかった。それ故に手に入れたものなんて何もないと思っていた。

簡単に言うとひどく後悔していたのであった。つまり、手に入れたと錯覚することによって正当化するという試みなのかもしれない。

どちらにせよ、どこかで一区切りさせねばならぬ話であって、年が区切るというタイミングがありちょうどいいと思った。この結論に達するのがこの年齢になってしまったのは残念だが。

 

一つ目に、人生の目的と言っては大層だが、なにができるようになりたいのかというのを思い出した。それは、「5秒後の未来を視る」ことである。「視る」のであって、推測とは異なる。

5秒という短さは単に事実を観察しただけに過ぎないのかもしれない。それほど近距離の、だけれども確実に未来の出来事について正確に捉えることがしたかった。

なぜそう思っているのかは今となってはさっぱりわからないのだけど、今になっても魅力を感じているし、人生をかける価値があると思う。私にとってこの目的以外の全ての行動は手段である。今後は忘れないようにしたい。

「5秒後の未来を視る」というのは観察者であって行為者でない。観察することによって、対象に変化が生じるなどという話もあるが、今回はその話がしたいのではない。

他に目標としては「未来を創る」というものが挙げられると思う。この言葉の響きは非常にかっこいいが、未来は創られるものであって創るものではない。と思う。創られた未来があったとしたら、それは彼にとっての未来であって本来の未来ではない。

また、私自身、自分以外の人間の未来を操作するというのはあまり好ましくないと考えている節もある。人間の意思を尊重するとかそういった視点というよりかは、未来を操作可能であると思ってしまうこと、又はその事実が個人に耐えられるものではないことに起因する。

これは、権力者になりたいか開拓者になりたいかという問いでもあるように感じる。

何はともあれ、これは私個人の能力の限界を決めてしまっているということである。

 

二つ目に、限界は存在するということを思い出した。至極当たり前のことではある。しかし、これを直接言及してくれるような人間というのは非常に少ない。「君たちの未来は無限の可能性で満たされている」というのが常套句であるから。そして、限界があるかどうかはやってみなければわからない。

限界が存在することについて、時間をかければ大抵のことはできると思っていた。これについては今も思っているかもしれない。ただ、時間をかければできることは他者にとってもできることである。ただ、やるかやらないかの問題である。

従って、やる、やっていた、という意義を見失った際に限界が訪れるということになる。

 

三つ目に、人間はそんなに大層に生きる必要がないということ。やったほうが良いことをすべて行うことは不可能であるし、やるべきことを全て列挙することすら凡人には不可能だろう。

何かをする意義というものは他者が与える場合がほとんどだろう。それは、やるべきこととして与えられたかもしれず、一方でやった方がよいこととして与えられたかもしれない。

どちらにせよ、自分の意思のみで意義を生み出すことはほとんど不可能だと思う。これについては人生の課題としても面白いのかもしれない。「なんのために生きるか」という大きなテーマではなく、単にある行動を取り上げて何のためにそれをするのかを考える。その目的が自分のみに依存しているかを逐一チェックしてみれば良い。

 

四つ目に、何のために行動しているかという問いに、自分のためにと答えていたと思っていたらそうでなかった。ということが挙げられる。

おそらく、これが自身にとって一番衝撃だったのだろうと思う。

社会の評価を気にせずに、自分の意思に基づいて行動し、その行動の責任はすべて自分で引き受ける。

この信念が成立しないまま生き続けていたという事実は、読まれることなく掃除道具となる新聞紙ほど悲しいものだと思う。より性質が悪いのは、人間であれば信念を変更することも認識して軌道修正することも可能とされていることである。

私は十分に愚かだったのでできなかった。

 

まぁ可能であるということと、義務であるということに隔たりがあるように、目的と行動について乖離があっても誰も困らないのだと思うが。

 

五つ目に、私は他者、少なくとも平均的な人間と比較して違和感に対して敏感であるということである。

自分にとって都合のよい世界を作ろうとすれば、矛盾に対して敏感にならざるを得ない。理不尽と感じるものは多くあったように思う。また、同様に安牌とされるもの、正解とされるものについても敏感であった。この能力を活かしたために今の自分がいるのであって感謝してもしきれない。違和感がなくなった世界での自分は、自分ではなく社会なのだろう。

社会は理不尽とよく言うが、そもそも理不尽を飲み込んだものが社会なのである。

 

六つ目に、正解は無視した方がよいということ。そして社会における安牌を無視して自分の意思に従うのは想像より難しいということ。

正解に従った場合、ある程度まではうまくいく。しかし、何らかの問題が生じてうまくいかなくなった時に、責任の所在が宙に浮くことになる。完全に自分の責任にすることもできずに、社会を恨むだけの存在になる可能性がある。

それには意義がないから。

 

正解に従わなかった場合、まずそれをおこなうこと自体が難しい。もし仮に失敗した場合、正解を知っていたのにそれに従わなかったという後悔をすることになる。正解の道に進んでいたからと言って人並みの人生を送れたかどうかはわからないにも関わらずである。

 

従って、私のような人間が目標とすべきスタンスは、正解を認識しないこととなる。

認識した時点で負けであるから。

 

つまり、私の能力を活かしつつストレスを軽減するためには違和感を認識することと、正解を認識しないことの二つが必要である。

これについては、違和感を解消しつつも、優劣をつけないようにすることが大切である。単に存在するだけであり、優劣がない。という境地に達することができれば、偏見がなくなり、正確に未来を視ることも可能になるだろう。

 

頭は良くならなかったが、そもそも頭がそこまで良くなる必要がなかったということに気づいた。この事実は大きい。私は、目標を定めると達成するまで意義を見失うことが多々あるということもこれからは念頭に置いて生活すべきだろう。

 

世の中には意味があると思われていても全く意味がないことが多すぎる。