現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

ゼネラリストかスペシャリストか

 

 

 

私は、これを長年考えている。頭の隅に置いてあり、行動の指針とすることがある。ゼネラリストかスペシャリストかどちらを目指すのかという問題は重要な意思決定の場面である。

 

AIの台頭が叫ばれている昨今の事情を念頭に置き、論を展開したい。(ただし、私も他の多くの人同様にAIについて多くの知識を持っているけではなく質の悪い推論に留まるだろう)

 

結論を述べると短期的にはスペシャリストが優勢で、長期的にはゼネラリストが優勢になるだろうということである。以下それの理由付けである。

短期、長期が具体的にどれくらいの期間なのかは見当もつかない。しかし、この移行は段階的なものであると考えるのでこの方向性を推論することに意義はあるだろう。

 

まず、囲碁、将棋は専門知識が必要かという問題があるだろう。これについては多くの人が必要だと答えるだろう。(通常利用する機会のない知識でもあるが)また、この分野でAIは驚異的な実績を残したことに意義を申し立てる人もいないだろう。

 

学習には教師信号が必要である。それゆえ、パソコンは決まったことをこなすのが得意であり、答えのあるものを解くのが得意なのである。人間に期待されている創造性は一般的に答えがないとされているものである。

 

①人間の専門知識がAIに代替可能になるまで(と認識されるまで)は現在と同じようにスペシャリストには安定的な収入と名誉が与えられるだろう。しかし、②専門職を目指す場合でも、これから生まれてくる人類はAIと同じだけの知能を人間が入手することと他の行動をすることを比較しながら生きていくことを迫られる。つまり、私が勉強したところでAIを追い越せるのか、信頼に値されるだけの何かを獲得できるかという問題である。この点について、①、②の段階でAIの技術進歩は①>②であっても成立すると考える。

専門職は現段階では安泰かもしれないが、将来的には急速に代替されていく可能性がある。人間が行うことそれ自体に意味があるとされている分野(囲碁将棋、スポーツ、モデル、民主主義的な何か)は除くが、AIに任せる風潮になるだろうと予測する。また、そうしなければ労働生産性が落ちるので国際競争ができない。(自国内で支出を賄える場合は別だが、基本的には国際競争力は高める必要があると考える)

 

翻訳家を考えると良いと思う。google翻訳がどんどん高度化しており、大意を掴むには十分だと考える人は増えていくだろう。その時代において、翻訳家になろうと夢見る少年少女はどの程度出現できるのだろうか。もし、多言語を高度に使う場合であれば、真に専門家である必要があり、その覚悟はあるのかと常に自身とAIの競争をする必要がある。(美しい訳は存在すると思うので、そういった文学的要素が求められる領域では必要とされ続けるだろう)

 

その時代に必要とされるのは他分野のことを浅くでも知っている人間だろう。英語と文学ができる人間等である。知らないということがわかるということや、調べることができるということはある程度の水準の理解がないとそもそも到達することができないということに最近気づいた。(目の前にパソコンがありながら高度な意思決定ができないことからでも理解すべきだったのだが)それは決して高度な領域ではないと考える。単に取っ掛かり程度のものである。

 

将来的に本当に求められるのは抽象化するスキルであったり、一般化するスキルなのだと思う。これは、学問分野だけでなく、単なる個人の経験からの導出も可能な人間である。(測定方法があるのかどうかは私にはわからないが。)

 

専門家ではダメな理由としては、わからないことがわからないということは、わからないため認識されない。また、本来認識する必要はそれほどないのだと思うからである。これは余談であるが、見えないものが見えると主張する人間のことを人は(精神)異常者と呼ぶ。

 

それらを踏まえて長期的にはゼネラリストになる方がよいと考える。(もちろんそれに加えて専門知識があればなお良しだろう)

 

 

 

一方で、遠すぎる未来よりとりあえずの明日が重要である。