非論理的であるから、それを伝える
論理的である。または、論理的だ。が指す内容は
Aという仮定が成立するならばBである。ということを他者に示せることだろう。
表現を変えて、AならばBである。ということ(A⊃B)を主張できるということである。
さて、Aという仮定が共有された場合に、Bが論理的に導けるのだとすれば、そもそも論理的な内容を論理的に主張する意味はあるのだろうか。
具体的には、自然数という概念を共有しており、1+1=2であるという仮定(+1という操作の意味を共有)がある場合に、1+2=3を主張する意味があるのかということである。
Bが論理的に導けるのであり、かつ会話の登場人物が①論理的思考力や②前提となる知識を持っていれば、主張する意味はない。
(①または②を有していない他者を想像することはできるだろうか、できたならその他者と意思疎通ができるかどうかも想像してほしい。)
それはつまり、自明であるからである。
しかし、論理的であるとは自明であることの積み重ねを意味する。
自明だと考えている何かを主張することは、自身が非論理的であるという証明か、他者を軽蔑しているという証明を与える。
(ここからも私見)
ところで、論理というものは
本来、言明が真か偽かを見極めることを目的にしている。
その拡張としてA⊃B(これもまた言明である)が真か偽かという問題まで扱えるようになった。
つまり、論理的であるとは、Aの真偽やBの真偽がどちらなのかを判定することにあるとも考えられる。
しかしながら、ある情報が与えられた場合に、それが本当かを疑うことを批判的とは言うが、論理的だと形容したことを見たことがない。
さらに言うならば、この行為は評価対象にならないことが多い。否定されたと感じるというのがその理由だというが、実際否定しているのだからその点に関して問題はない。
問題なのは、否定そのものに意味があるということを忘れ、肯定のみを求めているのではないかということである。
個人的にはある結論が成立するように、可能性の一部である前提を仮定することはたやすく、全ての可能性を列挙するように前提の数を増やす(選択肢を増やす)ことは難しいと考える。(指針がないためである)
また、その前提が受け入れられるかという段階になるとさらに難しいだろう。
ここで、論理学の話へ移るとA⊃Bは条件法と呼ばれ、Aが真でかつBが偽の場合、偽となり、それ以外の場合は真となる。
(現実問題として、Aは仮定であり常に真であることが通例ではある。)
★これは実はわかりにくく、読み飛ばすことを推奨する。↓
例:ジョーンズがマラリアにかかっていれば彼には治療が必要だ。
ジョーンズがマラリアにかかっているをp、ジョーンズには治療が必要だをqとすると、
pが真でqが偽のときのみp⊃qという言明は偽となる。
偽への変換は語尾にーでないを付与することによって達成される。
★↑
ここで、(科学の)反証可能性の話をしたい。
ポパーという人が考えた科学と非科学を分ける基準である。(理解している自信はありません)
端的に言うと、ある理論が科学的だと主張するためには、反証される可能性がなくてはならない。
例:ある理論が正しいならば、実験によってある現象が起こる。
ある理論が正しいをp、実験によってある現象が起こるをqとするとp⊃qと表現できる。
このとき、人間が観測できるのは現象のみでありqの真偽しか調べることができない。
条件法は、pが真でかつqが偽の場合、偽となり、それ以外の場合は真となる。
従って、pが真であるということを現象を観察する(qの真偽)ことによって積極的に主張できないということを指す。
つまり、pが偽でqが真の際に言明全体としては真となってしまうのである。(もちろんpが真でqが真の際に言明全体としては真である)
しかしながら、反証されれば確実に言明全体として偽となる。つまり、反証をしてみて反証されなかったことに対して科学的だと考えなければならないということである。
ここで重要なのは、まず科学というものは反証可能性がなくてはいけないということと、次に、長い時間によって反証に耐え続けたものがより価値があると考えられるということである。最後に、反証されたとしても科学は進歩するということ。
(補足として、反証のしやすさが問われることもあるだろう。つまり、明日雨が降るという予報と、一週間以内に雨が降るかもしれないという予報ではどちらが否定されやすいかということである)
ここで、個人の生き方は正しいかどうかを考える。
言明:個人の生き方が正しいならば、〇〇が生じる。
私は、どちらかというと一貫した考えで生きていたいと願うので科学とまでは言わないまでもその考え方を流用する。(すくなくとも利害関係のない第三者に不利益を被らせないように生きていきたい。一貫した考えということ、嘘をつかないことなどその類のことはそれを意味しているのだと思う。ちなみに民法で一番好きなのは法定地上権です)
また、この考え方に特化することもまた重視する。これは、正しい生き方をより狭く定義することである。ある意味で狭い視野を意味する。(私はこの考え方の中で何もかも否定するという戦略を採用してはいない)
例のごとく
p⊃qとすると、qを観測することは容易である。そして、反証を受けながらも正しいと考える生き方をすべきだと思っている。そして、これは今まで私が生きてきた時間によって補強されてきた。
しかしながら、反証された場合にどうするかという問題が浮上する。生き方が偽であった場合に人間はどういった行動をすべきなのか、それは非常に難しい。
(だが、反証されるという危うさを持っていることもまた科学の条件である。すなわち、反証された際、残念だと思う同時に安堵したと思えるということである。私自身M体質だと思っていなかったので理由がわからなかったのだが恐らくこういうことだろう)
根拠もなく何かを信じるということがいかに大切かがよく分かる題材とも言えるだろう。
スペシャリストとゼネラリストの違いはスペシャリストは前半の論理性を持っていて、ゼネラリストは中盤の論理性を持っているような気がする。
スペシャリストはある分野(選択肢)に価値がある、と無批判に信じることが必要である。一方、ゼネラリストは逃げ道があるという安心感と引き換えにすべてが否定されるという危うさがあると考えられるのかもしれない。(?)
これらはどちらも肯定されうるだろう。
余りにも正しい人が余りにも正しいことを言う
それは否定の余地がない。そうであるならば、恐らくその言葉に意味はない。
そうであるならば、正しくなくてよい。それを主張できるほどの気概が欲しい。
(正しい人を否定する意図はなく、その人の思う正しさが正しいと無条件に認められる場所で本来は過ごすべきなのだろう。私の見てきた社会人は余りにも正しく、これからも正しくなっていくのだろうと思う。)