現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

人間不信の成立過程

 

 

 人間不信というのは、人間が信用できないことである。人間が信用できないと、電車を待っている時にホームに突き落とされたりしないだろうか、突然殴られたりしないだろうか等と常に余計なことを考えないといけないように思う。

 私は、見ず知らずの人間は敵だと思ってるし、そういうことを言うと「人間不信なの?」とか「人間不信なんだね...」とか言われる。

 まぁそれは人の勝手だしいいのだけれど、私自身、人間不信を自称する気にはなれない。今回は、その理由について書く。(以前に言及した気もする)

 

 人間不信と聞くと、哀れみの感情を抱き優しくするのが普通の人間のすることである。人間不信だと宣言すると、周りの人間は少しでも信じてもらえるように、少しでも傷つけないように、そういう気持ちで接するのだと考える。

 つまり、人間不信になった原因として過去に他人に危害を加えられたことが推測できる。人間不信を生得的なものとして認識した人は少なくとも私の周りにはいない。

 

 

 

 だが、ここで考えて欲しいのは、人間不信になるのは何も危害を加えられた側だけではないということだ。

 危害を加えた側も人間不信になるための素質は十分に備えている。なぜなら、人間という単語は当然、自分をも含むからである。また、たくさんいる人間の中には自分と同じくらい危険な人間がいる。という考え方であっても人間不信になることは可能である。

 

 そんな相手にも優しく接する必要はあるのだろうか。

 

 

 

 危害を加えられた側は優しくされてもいい。理解できる。そうでないと可哀想である。バランスが取れていない。しかし、それは条件付きである。条件として、被害者が招いた危害でないことが必要である。

 

 自分が招いた危害を受け、人間不信だと申告し、優しさを施される。よく見る光景ではあるが、ここで注意して欲しいのは、危害がどうやって生まれたのかは認識できない場合がほとんどであるということだ。認識できる可能性が高いのは危害を加えた側であり加害者である。しかしながら、加害者はただ一人真実を知っていることで優しさを施しはしない。結局、悲劇のヒロインの取り巻きにいない。そんな人の声を誰も聞こうとはしない。そういう意味では被害者でもあるのだろう。

 

 

別にいいのだと思う。騙されている状況であっても当事者が楽しそうなら。損をする権利なら誰にでもある。そして、殆どの状況で私には関係がない。ただ、見ていて疲れるというだけだ。

 これもまた、損をする権利を行使した結果なのだが。