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現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

SNSの普及における重要な効果

 

 明けましておめでとうございます。また新しい一年が始まりました。私たちは、過ぎ行く一年を振り返って一年の短さを痛感するわけです。一年は短い。この冬も終わりすぐに春が来ることとなります。というわけで、出会いと別れの季節である春の話をします。

 

 

 もう二度と会うことがないとわかっている人に対して、どういった行動をするかでその人の本質が見えると思っています。これは、見返りには期待できないが、その瞬間のために何をするか?という問題になるでしょうか。

 

 ゲーム理論における繰り返しゲーム(合ってるはず)を知っている方は、わかってくれると思うんですが、一番最後の行動は最初の行動も規定してしまいます。これは、有限回の場合で、無限に繰り返される場合では最後の行動に規定されることはないはずです。

 二度と合うことはない人にどのように接するか。私は闇が好きなので、嫌いな人の場合を想定します。

 嫌いな人ともう二度と会うことがないのであれば、その人をいくらぞんざいに扱おうと報復される心配がありません。と、するならば、これまでの鬱憤を晴らすために最後の一回は好き放題していいわけです。

 ただ、SNSの普及により好き放題することは得策とは言えなくなりました。Aに〇〇されたという情報がSNSに掲載されれば今後会うかもしれない人に「Aは悪い人だ」という印象を抱かせます。つまり、SNSの普及が二度と会うことのない人へ好き放題することに対しての抑止力になっているということです。(具体的に説明しようとするとこうなるんですよ!ここまで来ると流石にわかりにくいですね。)

 ただ、これは最後に限った話ではなく、日常のどんな行動も自分の見ず知らずの他者に伝えられる危険が増しています。それが、SNSに掲載されて他者の不信感を煽るものかどうかということになります。

 

 

 ここで、最後だからといって適当に扱ってはいけないということが分かったと思います。「現実にそんな人いるのか?」そう思われている方も多いと思います。ただ、私の経験から言えば、結構いる。これに尽きます。いい季節なので探してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 ここから光の話をします。最後に丁寧に扱ってくれる人はとても良い人です。私は適当に扱う人のことを非道徳的と言っていたのではなく、むしろ合理的とさえ思っていました。逆に、丁寧に扱う人が端的に言うと異常な感覚を持っていると考えています。

 見返りもないのに丁寧に扱うのは想像してみるまでもなく、体力を消耗する活動です。加えて、緊急性、危険性がないのでSNS等に掲載され他者に伝播されるということが比較的少ないと考えます。すなわち、本人の努力とそれに対する見返りが見合っていないと感じるのです。

 私たちがSNSで本当にすることは誰かを罵倒することではなく、賞賛することかもしれないと思います。

 私は誰を大切にすべきか考えて行動できるようになりたいです。二度と会うことがないと思っている人がとても親切だったなら、無理をしてでも会いに行く方がいいと思う。