現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

知り合いの誕生日よりキリストの誕生日の方が好き

 

 誰を大切にするべきか。これは非常に大切な問題だと考えているので季節を無視してこの記事を書きます。

 

 

 キリストの誕生日はクリスマスです。子供たちはサンタさんからプレゼントを貰います。そして大人になるとサンタさんが架空の人物でないと知るわけです。

 プレゼントをくれた人が分かり、誰を大切にするべきか理解することができます。

 こう言う意味で私はクリスマスは嫌いではありません。やはり、嘘をつくこと自体は褒められる行為ではないので好きとは言い切れません。

 

 

 

 知り合いの誕生日はそれぞれの誕生日です。嫌いな人も好きな人もそれぞれ誕生日はあります。知っているか、覚えているかどうかは別として。

 誕生日を祝われて嬉しいと感じるのは、それを記憶していてくれたという事実が大きいと思います。嫌いな人の誕生日とか別に覚えないですし。

 集団に属していると、誕生日を祝おうという話になるのですが、私は誕生日を記憶していなかったため、祝う資格などないなと考えます。しかし、祝わないのは流石に社会不適合者との実感があるので一応出席という形を取ります。

 初めに祝おうと提案した人(提案者)は何を望むのでしょうか?誕生日を迎える人の幸せを望むなら、敢えてしないことも手段だと考えます。祝う人が多すぎる(私のような無資格者も含めた)と全員を大切にすることはできません。それなら、本当に大切にすべき人を大切にするべきだと思います。

 

 さらに、祝われている人は、往々にして誰が主催者なのか追求しようとしません。余り誰を大切にすべきなのか?という問題には興味がないのでしょうか。

 このように、知り合いの誕生日では誰を大切にするべきか理解することができません。(理解しようともしない)こういった行動は、主催者の私たちに向けた優しさアピールと考えると合点がいくのですが、誕生日の人があまりに不憫なので、できれば違う結末だと嬉しいです。

 

 こういうことは良くないと思う人は、誰が主催していたかぐらい教えてもいいのかも知れません。(過保護とも思うけど)