現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

人間不信の成立過程

 

 

 人間不信というのは、人間が信用できないことである。人間が信用できないと、電車を待っている時にホームに突き落とされたりしないだろうか、突然殴られたりしないだろうか等と常に余計なことを考えないといけないように思う。

 私は、見ず知らずの人間は敵だと思ってるし、そういうことを言うと「人間不信なの?」とか「人間不信なんだね...」とか言われる。

 まぁそれは人の勝手だしいいのだけれど、私自身、人間不信を自称する気にはなれない。今回は、その理由について書く。(以前に言及した気もする)

 

 人間不信と聞くと、哀れみの感情を抱き優しくするのが普通の人間のすることである。人間不信だと宣言すると、周りの人間は少しでも信じてもらえるように、少しでも傷つけないように、そういう気持ちで接するのだと考える。

 つまり、人間不信になった原因として過去に他人に危害を加えられたことが推測できる。人間不信を生得的なものとして認識した人は少なくとも私の周りにはいない。

 

 

 

 だが、ここで考えて欲しいのは、人間不信になるのは何も危害を加えられた側だけではないということだ。

 危害を加えた側も人間不信になるための素質は十分に備えている。なぜなら、人間という単語は当然、自分をも含むからである。また、たくさんいる人間の中には自分と同じくらい危険な人間がいる。という考え方であっても人間不信になることは可能である。

 

 そんな相手にも優しく接する必要はあるのだろうか。

 

 

 

 危害を加えられた側は優しくされてもいい。理解できる。そうでないと可哀想である。バランスが取れていない。しかし、それは条件付きである。条件として、被害者が招いた危害でないことが必要である。

 

 自分が招いた危害を受け、人間不信だと申告し、優しさを施される。よく見る光景ではあるが、ここで注意して欲しいのは、危害がどうやって生まれたのかは認識できない場合がほとんどであるということだ。認識できる可能性が高いのは危害を加えた側であり加害者である。しかしながら、加害者はただ一人真実を知っていることで優しさを施しはしない。結局、悲劇のヒロインの取り巻きにいない。そんな人の声を誰も聞こうとはしない。そういう意味では被害者でもあるのだろう。

 

 

別にいいのだと思う。騙されている状況であっても当事者が楽しそうなら。損をする権利なら誰にでもある。そして、殆どの状況で私には関係がない。ただ、見ていて疲れるというだけだ。

 これもまた、損をする権利を行使した結果なのだが。

 

 

知り合いの誕生日よりキリストの誕生日の方が好き

 

 誰を大切にするべきか。これは非常に大切な問題だと考えているので季節を無視してこの記事を書きます。

 

 

 キリストの誕生日はクリスマスです。子供たちはサンタさんからプレゼントを貰います。そして大人になるとサンタさんが架空の人物でないと知るわけです。

 プレゼントをくれた人が分かり、誰を大切にするべきか理解することができます。

 こう言う意味で私はクリスマスは嫌いではありません。やはり、嘘をつくこと自体は褒められる行為ではないので好きとは言い切れません。

 

 

 

 知り合いの誕生日はそれぞれの誕生日です。嫌いな人も好きな人もそれぞれ誕生日はあります。知っているか、覚えているかどうかは別として。

 誕生日を祝われて嬉しいと感じるのは、それを記憶していてくれたという事実が大きいと思います。嫌いな人の誕生日とか別に覚えないですし。

 集団に属していると、誕生日を祝おうという話になるのですが、私は誕生日を記憶していなかったため、祝う資格などないなと考えます。しかし、祝わないのは流石に社会不適合者との実感があるので一応出席という形を取ります。

 初めに祝おうと提案した人(提案者)は何を望むのでしょうか?誕生日を迎える人の幸せを望むなら、敢えてしないことも手段だと考えます。祝う人が多すぎる(私のような無資格者も含めた)と全員を大切にすることはできません。それなら、本当に大切にすべき人を大切にするべきだと思います。

 

 さらに、祝われている人は、往々にして誰が主催者なのか追求しようとしません。余り誰を大切にすべきなのか?という問題には興味がないのでしょうか。

 このように、知り合いの誕生日では誰を大切にするべきか理解することができません。(理解しようともしない)こういった行動は、主催者の私たちに向けた優しさアピールと考えると合点がいくのですが、誕生日の人があまりに不憫なので、できれば違う結末だと嬉しいです。

 

 こういうことは良くないと思う人は、誰が主催していたかぐらい教えてもいいのかも知れません。(過保護とも思うけど)

 

SNSの普及における重要な効果

 

 明けましておめでとうございます。また新しい一年が始まりました。私たちは、過ぎ行く一年を振り返って一年の短さを痛感するわけです。一年は短い。この冬も終わりすぐに春が来ることとなります。というわけで、出会いと別れの季節である春の話をします。

 

 

 もう二度と会うことがないとわかっている人に対して、どういった行動をするかでその人の本質が見えると思っています。これは、見返りには期待できないが、その瞬間のために何をするか?という問題になるでしょうか。

 

 ゲーム理論における繰り返しゲーム(合ってるはず)を知っている方は、わかってくれると思うんですが、一番最後の行動は最初の行動も規定してしまいます。これは、有限回の場合で、無限に繰り返される場合では最後の行動に規定されることはないはずです。

 二度と合うことはない人にどのように接するか。私は闇が好きなので、嫌いな人の場合を想定します。

 嫌いな人ともう二度と会うことがないのであれば、その人をいくらぞんざいに扱おうと報復される心配がありません。と、するならば、これまでの鬱憤を晴らすために最後の一回は好き放題していいわけです。

 ただ、SNSの普及により好き放題することは得策とは言えなくなりました。Aに〇〇されたという情報がSNSに掲載されれば今後会うかもしれない人に「Aは悪い人だ」という印象を抱かせます。つまり、SNSの普及が二度と会うことのない人へ好き放題することに対しての抑止力になっているということです。(具体的に説明しようとするとこうなるんですよ!ここまで来ると流石にわかりにくいですね。)

 ただ、これは最後に限った話ではなく、日常のどんな行動も自分の見ず知らずの他者に伝えられる危険が増しています。それが、SNSに掲載されて他者の不信感を煽るものかどうかということになります。

 

 

 ここで、最後だからといって適当に扱ってはいけないということが分かったと思います。「現実にそんな人いるのか?」そう思われている方も多いと思います。ただ、私の経験から言えば、結構いる。これに尽きます。いい季節なので探してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 ここから光の話をします。最後に丁寧に扱ってくれる人はとても良い人です。私は適当に扱う人のことを非道徳的と言っていたのではなく、むしろ合理的とさえ思っていました。逆に、丁寧に扱う人が端的に言うと異常な感覚を持っていると考えています。

 見返りもないのに丁寧に扱うのは想像してみるまでもなく、体力を消耗する活動です。加えて、緊急性、危険性がないのでSNS等に掲載され他者に伝播されるということが比較的少ないと考えます。すなわち、本人の努力とそれに対する見返りが見合っていないと感じるのです。

 私たちがSNSで本当にすることは誰かを罵倒することではなく、賞賛することかもしれないと思います。

 私は誰を大切にすべきか考えて行動できるようになりたいです。二度と会うことがないと思っている人がとても親切だったなら、無理をしてでも会いに行く方がいいと思う。

 

 

熟考すること



 意思決定において、熟考することは選択の価値がほぼ等価であることを意味する。
 だから、コイントスでもして決めてしまったほうが良いのかもしれない。

 長い間悩むことで、上手い答えが出ないといけないというか、答えを出さないといけない(サンクコストの過大視?)と感じるので、一週間とかある程度の期間を決めて、勝手に決めるように予め設定しておくほうが良いはず。

 コースの定理も、どちらに所有権を与えても社会の効用は変わらないのであって、損失となるのは調停の費用などである。としているから、そういうものなのかもしれない。


 後、考慮すべきは後悔しないか?つまり、選択に納得できるかということ。
 コイントスでもいいのだが、それで、将来損失を被るなら、やはり熟考したほうが合理的と言えるのかもしれない。

選挙について

 

 

 大阪ダブル選挙があったということで、選挙について思ったことをリハビリも兼ねてだらだら書いていきます。

 ハリネジミには政治が分からぬ。ということで、選挙の結果については全く触れません。従ってそれ以外の部分についての話になります。前回、前々回と学部に関係のない記事を書いてしまったので今回は、経済学部らしい記事にしようという意気込みはあります。間違っている箇所があれば是非教えてください。

 

 今年ももうすぐ終わりになりますが、『火花』という本がバカ売れしたのは記憶に新しいですね。この本は一応読んだので書くとしたら年が明ける前に感想を書いてみようかとも思っています。まぁそれはともかくとしまして、その少し前にブームになった本に『21世紀の資本』というものがありました。ダイヤモンドの特集?で読んだくらいなので深いところまでは知らないのですが、所得格差ヤバくね?みたいな内容だったと思います。r>gという式が書いてありますが、金持ってればもっと金持ちになって行くぐらいの意味で捉えてしまえばいいんじゃないかと思います。こうなれば益々格差は開いていきます。しかし、純粋な資本主義社会においては所得格差が開くからどうしたという程度のもので、初めから許容されていたことだと考えます。

 個人主義自由主義では個人の努力によって達成された所得であるから〜という論法を使うことが多いので、じゃあ相続税バシバシ負担してもらいますよ〜っていう話の流れのはずです。

 

 

 で、なんですけど、この相続税を改正するのは国会の役目であってその国会というのは(建前上)国民の意見が反映されたものになっています。国会の意思決定は基本的には過半数で決まるので、議員の過半数の意見が反映されます。議員の過半数=国民の過半数の意見となるかどうかは疑問が残りますが、ひとまずこう仮定しておきます。

 つまり、国民が自分の利害をしっかりと考慮し投票をすれば的外れな結果にはならないということです。

 所得格差を例に挙げると、

相続税増やす党

相続税増やさない党

 

①について、相続税で得られた税金は社会保障生活保護)などに使われる。

 

 とすると、低所得者は①へ投票をし、高所得者は②へ投票することは明らかであると考えます。従って、所得格差が大きく開きピラミッドの底辺が広くなったときには人口の比率が底辺側が大きくなるので①の党が勝ちやすくなるということです。

 所得にかかわらず一人一人に選挙権を与えるというのはものすごく重要なことだったんだと思い知らされますね。お金持ちかどうかで選挙をしてしまうA〇Bの総選挙は「選挙」じゃない!って口うるさく言ってた人の気持ちがわかるような気もします。(単に名付けただけだしそこまで言う必要はないとも思います)

 

 ということで、皆さんが十分に合理的だとしたら政策に関わるどんな選択に対しても人口比が1:1を超えた段階で1:1に戻るような作用が働いているはずです。選択というのは突き詰めれば二者択一になるというのは余りに有名なのでここでは敢えて言及しないですけど他の政策についても先ほどのモデルを使って説明できると考えます。

 

 ここからは、人口比が1:1でないにも関わらず是正の措置がなされていない時の条件を書いていきます。

 

①党の政策が民意を反映してない

②党の政策が達成される見込みがない

③党の政策が様々な要素を含んでいるため自分への影響を推測できない

④変わることを恐れている(プロスペクト理論で説明できそう)

⑤票の分配が上手く出来ていない(特定の候補者に集中してしまう?)

⑥政策をきちんと理解できない(教育を受ける権利、知る権利)

⑦投票しないほうがいい(投票で得られる利益の期待値<損失)

 

 ②に関しては今回の増税のときに散々テレビでやっていました。低所得者側の人間は本来、増税を喜ぶべきなのですが手放しで喜ぶ人は少なかったのです。増税されたあとに言われていましたが、増税分が本当に社会保障費に使われているのか?ということに関心が集まっていました。なにはともあれ、増税を拒否する人というのは高所得者なので、増税反対!と言っている人がいたら少し煽ってみましょう・。・

 確か、T↑により、G↑すると、雇用創出し、それが更に雇用を生むという乗数効果によりY↑になるという話があったはずです。

 

 ③に関しては大阪の政策が該当すると思います。やろうとしていることが多岐にわたるので結局自分への見返りが何なのかわからない。ということだと思います。まあ、分かりにくい政策にするのも悪いですが、こちら側も知る努力をするべきですよね。そもそも、民主主義国家では国民が国政に関心があるという前提のもとに成り立っていると思いますので。

 

 

 民主主義って確かポリスの時代が始まりだったはずですよね。ポリスの民は、奴隷を持っており十分な所得と余暇が存在していました。おまけに教養も備えていたらしいので、民主主義は成り立ちやすいのだと思います。

 現代の日本では、所得、余暇、教養を全て備えている人の割合というのはそれほどいないのではないかと思います。そもそも、所得が多い人は余暇の費用が高まるのでそもそも併存することは珍しいのかもしれません。(後方屈曲曲線からいって十分すぎる所得があればー)

  で、全てを兼ね備えているグループを考えると、高所得者であった高齢者が多く占めるのだと考えます。次に親の脛かじれる大学生ということになるのでしょうか。

 

 

  ここまで、人口比の話ばかりしてきましたが、若者に有利な政策にはなりにくいんですよね。理由としては簡単で、0~19歳までの意見というのは反映されないからです。少子高齢化というのはそういう意味で重要な問題であると考えます。

 つまり、少子高齢化社会においては、高齢者の意見が通りやすく若者の意見を考える必要は少ないということです。しかし、若者の意見が通りやすい社会では、高齢者の意見を考える必要がある。なぜなら、将来、高い確率で高齢者になるからですね。

 ということで、少し考え方を変えます。人口ピラミッドをイメージして、特定の人は自分より上の世代の政策については考慮するが、下の世代については考慮しないという仮定をおきます。

 すると、高齢者はある意味重複してカウントされることとなり、初めから有利になっています。そういった事情が有って18歳も選挙権が与えられたのでしょうか。

 

 なんかこの辺は、

「このまま資源使って言ったらいずれなくなるよ!」

「構うもんか!今が良ければそれでいい」

 

みたいな話に似ていると感じます。

 

 登場人物は自分のとこしか考えないという個人で構成されています。故に、家族という共同体でみると子供の利益も自分の利益に含まれることになりそうなので、そういうことがあって現状になっているのだと思います。(核家族化?ウッ....頭が)

 

 

近況報告

 

 

 行政書士試験が間近に迫っているので、最近更新はありませんでした。とりあえず、11/8が過ぎるまでは更新はないです。Twitter辞めたので生存報告という意味で記事を書きました。

 

 正直、今回受かるかどうかはさっぱり分からないですけど、やれるだけのことはやってみて、そして、やるなら受かろう。というスタンスで頑張りたいと思います。

 

 実際、こういうことをしないと法律のことを集中して勉強する機会はなかったと思いますし、ある意味よかったのかと思います。

 法律の勉強をしないで、色々批判するのは結構危ないことがあるということもわかりますし、視点が少し変化することに気づきました。

 物理学者が、モノの動きが数式で見えるとかと同じように、人と人の間に矢印が見えるようになりました(大嘘)

 ガチ暗記ゲーだと思っていたのですがそうではなく、実際は理論で解ける問題も多くそういう問題は解いていてわりと楽しいです。(知識で解くべき問題を敢えてこれで解いてミスるのに気づきました)

 

 去年も一応受験したんですが、夏休みから勉強を始めるとかいう余裕ぶっこき&本番キチガイ難易度ということで、記述が採点されずに終わりました。

 

 今回は記述がきちんと採点されるといいな(白目)

 

 これだけ言っていても受からなければ同じというのは最もではありますが。

 

 Twitter消したのは、Twitterがあまり得意ではない理由がはっきりしたということが大きいです。今度Twitterやるとしたら、アホみたいに呟く身内のアカウントか全然身内を入れないかどちらかになると思います。

 

 Twitterは、知らない相手を調査するには絶好のツールだと思うんですが、知り合いとするには知りすぎてしまうというかそういうことだと思います。

 

 

 アイデアを出すのはわりと好きらしくて、それだけで勝負できる小説というのやっぱり書いてみたいし、それをきちんと評価してもらえる友達が欲しいですね。

 でも、書いた小説って書いたレポートよりも個人的なものというか、端的に言って恥ずかしくもあるので非常に難しいと思います。

 暇つぶしの帝王ですから、本当に暇な人にはオススメします。

 

 ということで、みなさんまた会う日までごきげんよう!

笑いについて本気出して考えてみた

 

 

 色々な経緯があって、高校生のとき(中学生もか?)にお笑い担当をさせられていたので笑いについて考えることが多かった。そこで、今回は僕なりに「笑い」について書いていきたいと思います。僕は人によって、ボケともツッコミとも言われるので偏りまくった意見にはならないと信じています。

 お笑い芸人の評論家様ではないですので、そういうのが苦手な方でも安心して読むことができます。

 

 僕がお笑い担当をさせられていたという点で、1つ興味深いところは高校1年生の時は学年で5本の指に入るほどの陰気な奴だったということです。また、興味のある方は直接聞いて頂ければ環境がどれくらい恐ろしいのかをお教え致します。

 


 

 

 笑いについて書くからといって、これから読む文章が笑えるかというとそうではないということは付け加えておきます。

 ただ、面白く感じてくれるようには努力して書きますので、どうぞ。

 

 ちなみに僕が、笑いについて考えるようになった時期は2回あって、1回目は高校生の頃、自分で一発ギャグを考える必要があったため、どうすれば面白くなるのかを考える必要があったから。

 2回目は殆ど現在で、ツッコミ=批判という啓示を受けたことに起因します。『一億総ツッコミ時代』という本がえらく話題になったため、この考え方は共有されているものと考えます。

 こういったことが背景にあると、これからの話が少しは分かりやすくなるかもしれません。

 

というわけで恒例の目次です

 

ボケに規定されるツッコミ

ツッコミと批判の違い

面白さとは何か

本当に面白い人は人から好かれている人

 

 

ボケに規定されるツッコミ

 

 ツッコミ自体を笑いと考えている人もたまにいるので、ここは丁寧に書いていこうと思います。確かに、ツッコミのすぐ後に笑いが起きます。その意味でツッコミ=笑い製造機と考えてもいいのかも知れません。しかし、実際はボケの存在なくしてはツッコミが生まれることはなく、ツッコミだけをもって笑いを語るのは殆ど不可能だと考えます。何もないところから笑いの要素を生み出すのはボケで、そこに乗っかるのがツッコミということになるでしょう。

 ボケの敷いたレールの上にツッコミが乗っている。つまり、ボケはツッコミをある程度拘束します。ツッコミの美しさはボケに依拠することは間違いないでしょう。あるボケがあり、それを完全に無視したツッコミ(シュール的な意味で笑いはあるけど)は面白くないのは考えずともわかると思います。

 ボケだけでも、笑いが成立することを示したのが「ハライチ」で笑いを考えるに当たっては非常に重要な芸人であると考えます。

 殆ど、繰り返しの内容になりましたが、この文章においてはツッコミの社会的地位が下がったということだけ認識して頂ければ幸いです。

 

 

お前ってツッコミタイプやんな?

お前ってボケタイプやんな?

 

 まぁ関西人ならどちらか片方に分けられると思うんですけど、大体の傾向としてお調子者はツッコミで、天然系がボケと言われています。

. 僕は、一時期ツッコミタイプと言われることに強い拒否反応を示していました。その理由は前述したとおり、ツッコミは広義の批判だと考えているからです。人は批判する人間に対してあまりいい感情を抱きません。これは、経験的に明らかなことなので敢えて証明はしませんが、知りたいという方はお近くの書店で適当な大衆心理学の本を読めば書いてあると思います。(正確な定義では批判より、非難の方が適切かもしれないですが、伝わりやすさの面から批判という語を用いています)

 ツッコミは相手の言動を大声で否定します。「なんでやねん」「んなアホな」などなど、数えればキリがないほどですね。否定されて好感を持つ人間は少数派なのであって、基本的には嫌われます。しかし、笑いにおいては、否定は許容されその重要な要素として君臨しています。更に言うなら、人に好かれるツッコミというのは多く存在しています。

 この矛盾は興味深いと思います。(思いません?)

 

 

ツッコミと批判の違い

 

 先ほど、ツッコミと批判が似ている事を書きました。ここからは、それを踏まえて何が違うのかを考えてみます。

 簡単でかつ重要な点として、ボケとツッコミの間に信頼関係が気づかれているという点が挙げられます。批判は基本的に他者からされるものであり、そこに信頼関係が気づかれていないのが通常だからです。しかし、ボケ、ツッコミ間では、極めて高度な信頼関係が気づかれていることが芸人の苦労話などを聞いていると理解できます。

 この信頼関係は、イジられ系の人間が見知らぬ人から突然イジられてマジギレするのと共通するものがあります。たまにイジって来る人は、こちら側がどれくらいの寛容さを持っているかも知らない場合があり、そういうこともキレる要因となっています。

 この話は

hozamat.hatenablog.com

この記事とも共通する点があると思うので、暇な方はそちらもどうぞ。

 話がズレてしまったので戻します。

 信頼関係が築かれていることのメリットは、頭を強く叩かれても怒らないとか、否定されまくっても怒らないとかいう表面的な部分でだけではなく、ボケる瞬間に重要な役割を果たします。つまり、ツッコミがどれくらいボケに対応することができるのか?という点においてです。ボケにとって一番恐ろしいことは、ボケがボケと理解されずにスルーされることであり、ボケはボケと認識できるようなボケをツッコミに対してする必要があります。そこで、信頼関係や相手のことを深く知ることが大切になってきます。

 相手のことを知らない場合、一般的な流行りに頼るのが最も安牌だと考えます。そのため、初対面の関西人の会話はそういったものを取り入れたものだと推察します。

 

 もう一つ、ツッコミが批判と違う点は、ボケの機会を与えるという点にあります。批判は被批判者からの言葉を待っていることは少ないと思います。(その場合単に指摘といって差し支えないと感じます)ボケの後のツッコミによって、再度ボケをする機会を作ることができます。この考え方に立つと、ツッコミ<ボケという構図が説得力を増します。

 

 

 

面白さとは何か

 

 と、ここまでお膳立てしてきたので、そろそろ本題に入りたいと思います。笑いについて具体例を提示するのは非常に難しいので、わかりにくくなるかもしれません。予め謝罪しておきます。

 

 ここで、この記事のタイトル「笑いについて本気出して考えてみた」というのを見て、面白いと思って頂いた方は何人かおられると思うんですけど、殆どの方はつまらなく感じていると思います。(僕のボケがつまらないのは自明としても)

 それはなぜかというと、このタイトルがポルノグラフィティの『幸せについて本気出して考えてみた』という歌のタイトルのパクリという事実を知らかったからだと思うんです。まだ、貴方がこのタイトルを見て面白くなかったとしても、面白いのだろうと納得はされたかと思います。

 つまり、笑いには共通認識が非常に重要な意味合いを持つということです。

 

 これ以上具体例を出すのは心苦しいので、面白い出来事に照らし合わせて考えてみてください。

 

 ここからは、ボケからツッコミまでのプロセスを解説します

※あくまで個人の見解です

 

具体的な事象A→抽象化→具体的なボケB→抽象化→具体的なツッコミC

 

ボケがなく、自然現象に対してなどにツッコむときは

 

具体的な事象A→抽象化→具体的なツッコミB

 

漫才などで、初めの具体的な事象がない場合は自明ですが

 

具体的なボケA→抽象化→具体的なツッコミB

 

とこのようなプロセスを経ると考えます。

 

 

「グローバル人材って言葉、ルー大柴が作ったとしか考えられない」tweeted by ハリネジミ

 

という奇跡的に面白い文章があったとします。

 

グローバル人材(具体的な事象)→日本語と英語の組み合わせ(抽象化)→ルー大柴が作った(具体的な自称)

 

したがって、ルー大柴が作ったと言った段階で、抽象化の部分を理解することができます。それを理解できないと笑いから取り残されることになります。

 

 

 繰り返しになりますが、ツッコミは抽象化がどうやって行われたのかを聴衆に提示することになります。そこで、聴衆は理解し納得し笑いが起きると考えています。ツッコミが面白いとされるのはこうした効果によるものだと思います。笑いにおける繰り返しが重要な意味を持つのもここから容易に理解されることと思います。

 つまり、ボケの名手もツッコミの名手も抽象化と具体化が得意と結論付けることができるでしょう。

 聴衆は抽象化、具体化を追体験することによって笑い、笑うことで、追体験できたことを示すことができます。

 ここでも、重要になってくるのは聴衆のレベルであり、どの程度のことまでが共通認識として、換言するなら抽象化され得るのかについて知っておくことが必要になります。わかりきったことに対しては驚きはなく、敢えて理解できたと示す必要はないからです。

 また、同時に次のようなことが言えるかもしれません。笑いが具体化、抽象化を追体験して得られるものであれば、単に抽象的なものを提示することで、聴衆が具体化できたときには面白さを感じることができるのではないか?ということです。

 ここで、僕が言いたいのは、抽象的なこと、一般化されたもの話しているのはそこに何らかの意味を汲み取れれば面白いかもしれないということです。

 

 

本当に面白い人は人から好かれている人

 

 Naverまとめみたいな小見出しですが、気にせず行きましょう。先程までの議論が正しければ、笑うことで共感を示すことができます。共感を示す必要があるのは好意を示す必要があるからと言って良いほど密接な関係があります。興味がある方はお近くの書店で大衆心理学の本を読めば書いてあると思います。

 故に、面白い人間になるためにはどうすればいいか?と訊かれた時に

 

人に好かれる人間になれ

 

というのは何も間違いではなく、適切なアプローチと言えます。

 

(人に好かれるために面白くなろう的な本が巷に散乱しているのは中々面白いことではありますが)

 

 まぁあれですね、そこまで面白い話でもないのに大笑いしてる人見るとこの人あの人のこと好きなんだなぁって思いますね。

 

 逆に、僕があの人のこと嫌いなんだなぁって感じる原因にもなったりしますけど。だから、皆が笑ってるときに笑えないとどこがどうして面白いのか執拗に質問してしまうのかも知れません。

 

 

 

今夜は月が綺麗ですね