知り合いの誕生日よりキリストの誕生日の方が好き
誰を大切にするべきか。これは非常に大切な問題だと考えているので季節を無視してこの記事を書きます。
キリストの誕生日はクリスマスです。子供たちはサンタさんからプレゼントを貰います。そして大人になるとサンタさんが架空の人物でないと知るわけです。
プレゼントをくれた人が分かり、誰を大切にするべきか理解することができます。
こう言う意味で私はクリスマスは嫌いではありません。やはり、嘘をつくこと自体は褒められる行為ではないので好きとは言い切れません。
知り合いの誕生日はそれぞれの誕生日です。嫌いな人も好きな人もそれぞれ誕生日はあります。知っているか、覚えているかどうかは別として。
誕生日を祝われて嬉しいと感じるのは、それを記憶していてくれたという事実が大きいと思います。嫌いな人の誕生日とか別に覚えないですし。
集団に属していると、誕生日を祝おうという話になるのですが、私は誕生日を記憶していなかったため、祝う資格などないなと考えます。しかし、祝わないのは流石に社会不適合者との実感があるので一応出席という形を取ります。
初めに祝おうと提案した人(提案者)は何を望むのでしょうか?誕生日を迎える人の幸せを望むなら、敢えてしないことも手段だと考えます。祝う人が多すぎる(私のような無資格者も含めた)と全員を大切にすることはできません。それなら、本当に大切にすべき人を大切にするべきだと思います。
さらに、祝われている人は、往々にして誰が主催者なのか追求しようとしません。余り誰を大切にすべきなのか?という問題には興味がないのでしょうか。
このように、知り合いの誕生日では誰を大切にするべきか理解することができません。(理解しようともしない)こういった行動は、主催者の私たちに向けた優しさアピールと考えると合点がいくのですが、誕生日の人があまりに不憫なので、できれば違う結末だと嬉しいです。
こういうことは良くないと思う人は、誰が主催していたかぐらい教えてもいいのかも知れません。(過保護とも思うけど)
SNSの普及における重要な効果
明けましておめでとうございます。また新しい一年が始まりました。私たちは、過ぎ行く一年を振り返って一年の短さを痛感するわけです。一年は短い。この冬も終わりすぐに春が来ることとなります。というわけで、出会いと別れの季節である春の話をします。
もう二度と会うことがないとわかっている人に対して、どういった行動をするかでその人の本質が見えると思っています。これは、見返りには期待できないが、その瞬間のために何をするか?という問題になるでしょうか。
ゲーム理論における繰り返しゲーム(合ってるはず)を知っている方は、わかってくれると思うんですが、一番最後の行動は最初の行動も規定してしまいます。これは、有限回の場合で、無限に繰り返される場合では最後の行動に規定されることはないはずです。
二度と合うことはない人にどのように接するか。私は闇が好きなので、嫌いな人の場合を想定します。
嫌いな人ともう二度と会うことがないのであれば、その人をいくらぞんざいに扱おうと報復される心配がありません。と、するならば、これまでの鬱憤を晴らすために最後の一回は好き放題していいわけです。
ただ、SNSの普及により好き放題することは得策とは言えなくなりました。Aに〇〇されたという情報がSNSに掲載されれば今後会うかもしれない人に「Aは悪い人だ」という印象を抱かせます。つまり、SNSの普及が二度と会うことのない人へ好き放題することに対しての抑止力になっているということです。(具体的に説明しようとするとこうなるんですよ!ここまで来ると流石にわかりにくいですね。)
ただ、これは最後に限った話ではなく、日常のどんな行動も自分の見ず知らずの他者に伝えられる危険が増しています。それが、SNSに掲載されて他者の不信感を煽るものかどうかということになります。
ここで、最後だからといって適当に扱ってはいけないということが分かったと思います。「現実にそんな人いるのか?」そう思われている方も多いと思います。ただ、私の経験から言えば、結構いる。これに尽きます。いい季節なので探してみてはいかがでしょうか?
ここから光の話をします。最後に丁寧に扱ってくれる人はとても良い人です。私は適当に扱う人のことを非道徳的と言っていたのではなく、むしろ合理的とさえ思っていました。逆に、丁寧に扱う人が端的に言うと異常な感覚を持っていると考えています。
見返りもないのに丁寧に扱うのは想像してみるまでもなく、体力を消耗する活動です。加えて、緊急性、危険性がないのでSNS等に掲載され他者に伝播されるということが比較的少ないと考えます。すなわち、本人の努力とそれに対する見返りが見合っていないと感じるのです。
私たちがSNSで本当にすることは誰かを罵倒することではなく、賞賛することかもしれないと思います。
私は誰を大切にすべきか考えて行動できるようになりたいです。二度と会うことがないと思っている人がとても親切だったなら、無理をしてでも会いに行く方がいいと思う。
熟考すること
選挙について
大阪ダブル選挙があったということで、選挙について思ったことをリハビリも兼ねてだらだら書いていきます。
ハリネジミには政治が分からぬ。ということで、選挙の結果については全く触れません。従ってそれ以外の部分についての話になります。前回、前々回と学部に関係のない記事を書いてしまったので今回は、経済学部らしい記事にしようという意気込みはあります。間違っている箇所があれば是非教えてください。
今年ももうすぐ終わりになりますが、『火花』という本がバカ売れしたのは記憶に新しいですね。この本は一応読んだので書くとしたら年が明ける前に感想を書いてみようかとも思っています。まぁそれはともかくとしまして、その少し前にブームになった本に『21世紀の資本』というものがありました。ダイヤモンドの特集?で読んだくらいなので深いところまでは知らないのですが、所得格差ヤバくね?みたいな内容だったと思います。r>gという式が書いてありますが、金持ってればもっと金持ちになって行くぐらいの意味で捉えてしまえばいいんじゃないかと思います。こうなれば益々格差は開いていきます。しかし、純粋な資本主義社会においては所得格差が開くからどうしたという程度のもので、初めから許容されていたことだと考えます。
個人主義、自由主義では個人の努力によって達成された所得であるから〜という論法を使うことが多いので、じゃあ相続税バシバシ負担してもらいますよ〜っていう話の流れのはずです。
で、なんですけど、この相続税を改正するのは国会の役目であってその国会というのは(建前上)国民の意見が反映されたものになっています。国会の意思決定は基本的には過半数で決まるので、議員の過半数の意見が反映されます。議員の過半数=国民の過半数の意見となるかどうかは疑問が残りますが、ひとまずこう仮定しておきます。
つまり、国民が自分の利害をしっかりと考慮し投票をすれば的外れな結果にはならないということです。
所得格差を例に挙げると、
①相続税増やす党
②相続税増やさない党
①について、相続税で得られた税金は社会保障(生活保護)などに使われる。
とすると、低所得者は①へ投票をし、高所得者は②へ投票することは明らかであると考えます。従って、所得格差が大きく開きピラミッドの底辺が広くなったときには人口の比率が底辺側が大きくなるので①の党が勝ちやすくなるということです。
所得にかかわらず一人一人に選挙権を与えるというのはものすごく重要なことだったんだと思い知らされますね。お金持ちかどうかで選挙をしてしまうA〇Bの総選挙は「選挙」じゃない!って口うるさく言ってた人の気持ちがわかるような気もします。(単に名付けただけだしそこまで言う必要はないとも思います)
ということで、皆さんが十分に合理的だとしたら政策に関わるどんな選択に対しても人口比が1:1を超えた段階で1:1に戻るような作用が働いているはずです。選択というのは突き詰めれば二者択一になるというのは余りに有名なのでここでは敢えて言及しないですけど他の政策についても先ほどのモデルを使って説明できると考えます。
ここからは、人口比が1:1でないにも関わらず是正の措置がなされていない時の条件を書いていきます。
①党の政策が民意を反映してない
②党の政策が達成される見込みがない
③党の政策が様々な要素を含んでいるため自分への影響を推測できない
④変わることを恐れている(プロスペクト理論で説明できそう)
⑤票の分配が上手く出来ていない(特定の候補者に集中してしまう?)
⑥政策をきちんと理解できない(教育を受ける権利、知る権利)
⑦投票しないほうがいい(投票で得られる利益の期待値<損失)
②に関しては今回の増税のときに散々テレビでやっていました。低所得者側の人間は本来、増税を喜ぶべきなのですが手放しで喜ぶ人は少なかったのです。増税されたあとに言われていましたが、増税分が本当に社会保障費に使われているのか?ということに関心が集まっていました。なにはともあれ、増税を拒否する人というのは高所得者なので、増税反対!と言っている人がいたら少し煽ってみましょう・。・
確か、T↑により、G↑すると、雇用創出し、それが更に雇用を生むという乗数効果によりY↑になるという話があったはずです。
③に関しては大阪の政策が該当すると思います。やろうとしていることが多岐にわたるので結局自分への見返りが何なのかわからない。ということだと思います。まあ、分かりにくい政策にするのも悪いですが、こちら側も知る努力をするべきですよね。そもそも、民主主義国家では国民が国政に関心があるという前提のもとに成り立っていると思いますので。
民主主義って確かポリスの時代が始まりだったはずですよね。ポリスの民は、奴隷を持っており十分な所得と余暇が存在していました。おまけに教養も備えていたらしいので、民主主義は成り立ちやすいのだと思います。
現代の日本では、所得、余暇、教養を全て備えている人の割合というのはそれほどいないのではないかと思います。そもそも、所得が多い人は余暇の費用が高まるのでそもそも併存することは珍しいのかもしれません。(後方屈曲曲線からいって十分すぎる所得があればー)
で、全てを兼ね備えているグループを考えると、高所得者であった高齢者が多く占めるのだと考えます。次に親の脛かじれる大学生ということになるのでしょうか。
ここまで、人口比の話ばかりしてきましたが、若者に有利な政策にはなりにくいんですよね。理由としては簡単で、0~19歳までの意見というのは反映されないからです。少子高齢化というのはそういう意味で重要な問題であると考えます。
つまり、少子高齢化社会においては、高齢者の意見が通りやすく若者の意見を考える必要は少ないということです。しかし、若者の意見が通りやすい社会では、高齢者の意見を考える必要がある。なぜなら、将来、高い確率で高齢者になるからですね。
ということで、少し考え方を変えます。人口ピラミッドをイメージして、特定の人は自分より上の世代の政策については考慮するが、下の世代については考慮しないという仮定をおきます。
すると、高齢者はある意味重複してカウントされることとなり、初めから有利になっています。そういった事情が有って18歳も選挙権が与えられたのでしょうか。
なんかこの辺は、
「このまま資源使って言ったらいずれなくなるよ!」
「構うもんか!今が良ければそれでいい」
みたいな話に似ていると感じます。
登場人物は自分のとこしか考えないという個人で構成されています。故に、家族という共同体でみると子供の利益も自分の利益に含まれることになりそうなので、そういうことがあって現状になっているのだと思います。(核家族化?ウッ....頭が)
近況報告
行政書士試験が間近に迫っているので、最近更新はありませんでした。とりあえず、11/8が過ぎるまでは更新はないです。Twitter辞めたので生存報告という意味で記事を書きました。
正直、今回受かるかどうかはさっぱり分からないですけど、やれるだけのことはやってみて、そして、やるなら受かろう。というスタンスで頑張りたいと思います。
実際、こういうことをしないと法律のことを集中して勉強する機会はなかったと思いますし、ある意味よかったのかと思います。
法律の勉強をしないで、色々批判するのは結構危ないことがあるということもわかりますし、視点が少し変化することに気づきました。
物理学者が、モノの動きが数式で見えるとかと同じように、人と人の間に矢印が見えるようになりました(大嘘)
ガチ暗記ゲーだと思っていたのですがそうではなく、実際は理論で解ける問題も多くそういう問題は解いていてわりと楽しいです。(知識で解くべき問題を敢えてこれで解いてミスるのに気づきました)
去年も一応受験したんですが、夏休みから勉強を始めるとかいう余裕ぶっこき&本番キチガイ難易度ということで、記述が採点されずに終わりました。
今回は記述がきちんと採点されるといいな(白目)
これだけ言っていても受からなければ同じというのは最もではありますが。
Twitter消したのは、Twitterがあまり得意ではない理由がはっきりしたということが大きいです。今度Twitterやるとしたら、アホみたいに呟く身内のアカウントか全然身内を入れないかどちらかになると思います。
Twitterは、知らない相手を調査するには絶好のツールだと思うんですが、知り合いとするには知りすぎてしまうというかそういうことだと思います。
アイデアを出すのはわりと好きらしくて、それだけで勝負できる小説というのやっぱり書いてみたいし、それをきちんと評価してもらえる友達が欲しいですね。
でも、書いた小説って書いたレポートよりも個人的なものというか、端的に言って恥ずかしくもあるので非常に難しいと思います。
暇つぶしの帝王ですから、本当に暇な人にはオススメします。
ということで、みなさんまた会う日までごきげんよう!
笑いについて本気出して考えてみた
色々な経緯があって、高校生のとき(中学生もか?)にお笑い担当をさせられていたので笑いについて考えることが多かった。そこで、今回は僕なりに「笑い」について書いていきたいと思います。僕は人によって、ボケともツッコミとも言われるので偏りまくった意見にはならないと信じています。
お笑い芸人の評論家様ではないですので、そういうのが苦手な方でも安心して読むことができます。
僕がお笑い担当をさせられていたという点で、1つ興味深いところは高校1年生の時は学年で5本の指に入るほどの陰気な奴だったということです。また、興味のある方は直接聞いて頂ければ環境がどれくらい恐ろしいのかをお教え致します。
笑いについて書くからといって、これから読む文章が笑えるかというとそうではないということは付け加えておきます。
ただ、面白く感じてくれるようには努力して書きますので、どうぞ。
ちなみに僕が、笑いについて考えるようになった時期は2回あって、1回目は高校生の頃、自分で一発ギャグを考える必要があったため、どうすれば面白くなるのかを考える必要があったから。
2回目は殆ど現在で、ツッコミ=批判という啓示を受けたことに起因します。『一億総ツッコミ時代』という本がえらく話題になったため、この考え方は共有されているものと考えます。
こういったことが背景にあると、これからの話が少しは分かりやすくなるかもしれません。
というわけで恒例の目次です
ボケに規定されるツッコミ
ツッコミ自体を笑いと考えている人もたまにいるので、ここは丁寧に書いていこうと思います。確かに、ツッコミのすぐ後に笑いが起きます。その意味でツッコミ=笑い製造機と考えてもいいのかも知れません。しかし、実際はボケの存在なくしてはツッコミが生まれることはなく、ツッコミだけをもって笑いを語るのは殆ど不可能だと考えます。何もないところから笑いの要素を生み出すのはボケで、そこに乗っかるのがツッコミということになるでしょう。
ボケの敷いたレールの上にツッコミが乗っている。つまり、ボケはツッコミをある程度拘束します。ツッコミの美しさはボケに依拠することは間違いないでしょう。あるボケがあり、それを完全に無視したツッコミ(シュール的な意味で笑いはあるけど)は面白くないのは考えずともわかると思います。
ボケだけでも、笑いが成立することを示したのが「ハライチ」で笑いを考えるに当たっては非常に重要な芸人であると考えます。
殆ど、繰り返しの内容になりましたが、この文章においてはツッコミの社会的地位が下がったということだけ認識して頂ければ幸いです。
お前ってツッコミタイプやんな?
お前ってボケタイプやんな?
まぁ関西人ならどちらか片方に分けられると思うんですけど、大体の傾向としてお調子者はツッコミで、天然系がボケと言われています。
. 僕は、一時期ツッコミタイプと言われることに強い拒否反応を示していました。その理由は前述したとおり、ツッコミは広義の批判だと考えているからです。人は批判する人間に対してあまりいい感情を抱きません。これは、経験的に明らかなことなので敢えて証明はしませんが、知りたいという方はお近くの書店で適当な大衆心理学の本を読めば書いてあると思います。(正確な定義では批判より、非難の方が適切かもしれないですが、伝わりやすさの面から批判という語を用いています)
ツッコミは相手の言動を大声で否定します。「なんでやねん」「んなアホな」などなど、数えればキリがないほどですね。否定されて好感を持つ人間は少数派なのであって、基本的には嫌われます。しかし、笑いにおいては、否定は許容されその重要な要素として君臨しています。更に言うなら、人に好かれるツッコミというのは多く存在しています。
この矛盾は興味深いと思います。(思いません?)
ツッコミと批判の違い
先ほど、ツッコミと批判が似ている事を書きました。ここからは、それを踏まえて何が違うのかを考えてみます。
簡単でかつ重要な点として、ボケとツッコミの間に信頼関係が気づかれているという点が挙げられます。批判は基本的に他者からされるものであり、そこに信頼関係が気づかれていないのが通常だからです。しかし、ボケ、ツッコミ間では、極めて高度な信頼関係が気づかれていることが芸人の苦労話などを聞いていると理解できます。
この信頼関係は、イジられ系の人間が見知らぬ人から突然イジられてマジギレするのと共通するものがあります。たまにイジって来る人は、こちら側がどれくらいの寛容さを持っているかも知らない場合があり、そういうこともキレる要因となっています。
この話は
この記事とも共通する点があると思うので、暇な方はそちらもどうぞ。
話がズレてしまったので戻します。
信頼関係が築かれていることのメリットは、頭を強く叩かれても怒らないとか、否定されまくっても怒らないとかいう表面的な部分でだけではなく、ボケる瞬間に重要な役割を果たします。つまり、ツッコミがどれくらいボケに対応することができるのか?という点においてです。ボケにとって一番恐ろしいことは、ボケがボケと理解されずにスルーされることであり、ボケはボケと認識できるようなボケをツッコミに対してする必要があります。そこで、信頼関係や相手のことを深く知ることが大切になってきます。
相手のことを知らない場合、一般的な流行りに頼るのが最も安牌だと考えます。そのため、初対面の関西人の会話はそういったものを取り入れたものだと推察します。
もう一つ、ツッコミが批判と違う点は、ボケの機会を与えるという点にあります。批判は被批判者からの言葉を待っていることは少ないと思います。(その場合単に指摘といって差し支えないと感じます)ボケの後のツッコミによって、再度ボケをする機会を作ることができます。この考え方に立つと、ツッコミ<ボケという構図が説得力を増します。
面白さとは何か
と、ここまでお膳立てしてきたので、そろそろ本題に入りたいと思います。笑いについて具体例を提示するのは非常に難しいので、わかりにくくなるかもしれません。予め謝罪しておきます。
ここで、この記事のタイトル「笑いについて本気出して考えてみた」というのを見て、面白いと思って頂いた方は何人かおられると思うんですけど、殆どの方はつまらなく感じていると思います。(僕のボケがつまらないのは自明としても)
それはなぜかというと、このタイトルがポルノグラフィティの『幸せについて本気出して考えてみた』という歌のタイトルのパクリという事実を知らかったからだと思うんです。まだ、貴方がこのタイトルを見て面白くなかったとしても、面白いのだろうと納得はされたかと思います。
つまり、笑いには共通認識が非常に重要な意味合いを持つということです。
これ以上具体例を出すのは心苦しいので、面白い出来事に照らし合わせて考えてみてください。
ここからは、ボケからツッコミまでのプロセスを解説します
※あくまで個人の見解です
具体的な事象A→抽象化→具体的なボケB→抽象化→具体的なツッコミC
ボケがなく、自然現象に対してなどにツッコむときは
具体的な事象A→抽象化→具体的なツッコミB
漫才などで、初めの具体的な事象がない場合は自明ですが
具体的なボケA→抽象化→具体的なツッコミB
とこのようなプロセスを経ると考えます。
「グローバル人材って言葉、ルー大柴が作ったとしか考えられない」tweeted by ハリネジミ
という奇跡的に面白い文章があったとします。
グローバル人材(具体的な事象)→日本語と英語の組み合わせ(抽象化)→ルー大柴が作った(具体的な自称)
したがって、ルー大柴が作ったと言った段階で、抽象化の部分を理解することができます。それを理解できないと笑いから取り残されることになります。
繰り返しになりますが、ツッコミは抽象化がどうやって行われたのかを聴衆に提示することになります。そこで、聴衆は理解し納得し笑いが起きると考えています。ツッコミが面白いとされるのはこうした効果によるものだと思います。笑いにおける繰り返しが重要な意味を持つのもここから容易に理解されることと思います。
つまり、ボケの名手もツッコミの名手も抽象化と具体化が得意と結論付けることができるでしょう。
聴衆は抽象化、具体化を追体験することによって笑い、笑うことで、追体験できたことを示すことができます。
ここでも、重要になってくるのは聴衆のレベルであり、どの程度のことまでが共通認識として、換言するなら抽象化され得るのかについて知っておくことが必要になります。わかりきったことに対しては驚きはなく、敢えて理解できたと示す必要はないからです。
また、同時に次のようなことが言えるかもしれません。笑いが具体化、抽象化を追体験して得られるものであれば、単に抽象的なものを提示することで、聴衆が具体化できたときには面白さを感じることができるのではないか?ということです。
ここで、僕が言いたいのは、抽象的なこと、一般化されたもの話しているのはそこに何らかの意味を汲み取れれば面白いかもしれないということです。
本当に面白い人は人から好かれている人
Naverまとめみたいな小見出しですが、気にせず行きましょう。先程までの議論が正しければ、笑うことで共感を示すことができます。共感を示す必要があるのは好意を示す必要があるからと言って良いほど密接な関係があります。興味がある方はお近くの書店で大衆心理学の本を読めば書いてあると思います。
故に、面白い人間になるためにはどうすればいいか?と訊かれた時に
人に好かれる人間になれ
というのは何も間違いではなく、適切なアプローチと言えます。
(人に好かれるために面白くなろう的な本が巷に散乱しているのは中々面白いことではありますが)
まぁあれですね、そこまで面白い話でもないのに大笑いしてる人見るとこの人あの人のこと好きなんだなぁって思いますね。
逆に、僕があの人のこと嫌いなんだなぁって感じる原因にもなったりしますけど。だから、皆が笑ってるときに笑えないとどこがどうして面白いのか執拗に質問してしまうのかも知れません。
今夜は月が綺麗ですね
期待と信頼
最近、書こうと考えてた内容に色々な出来事が重なったので、公開してみようと考えました。
論理構成がガバガバのような気がするんで、論理ガチ勢からしたら読みにくいことだと思います。(今から書きます)
ここまで来たら頑張って読んでください。
政治家AとBのモデルで一区切りです。それ以降は1つずつ独立した話です。
目次
A「お前の話は分かりにくい。だから、ありがとう」
B「それは、それはどういたしまして」
このAは皮肉ではなく成立するという話。だから、特に違和感がないという人は完全に時間の無駄だから戻るボタンorタスクキル推奨ということで。
僕の話すことは、基本的に極論だと思うから語尾に(諸説アリ)というのを付けて読むぐらいがちょうどいいかも知れない。
↑この文章を読んで、感じ方は人それぞれだと思うが大きく分けて以下の4つが挙げられると考える。
①何言ってるのかわからねーよふざけんなカス!!!!
②あ、そうですねハイ
③えらく親切ですね
④そんなことぐらい分かっとるわ!舐めとんちゃうぞゴミ!!!
自分がどんなタイプに該当するか一度選んでもらうと、どんな立場の人について書いているかが多少わかりやすくなると思います。
期待と信頼の定義
何かを論じるためにはまず定義が重要ということで、定義していきます。辞書を引用してもいいんですけど、パクリに厳しい世の中なので参考にしながら定義します。この話は特に対人関係を想定するので、それも踏まえて。
期待・・・特定人物に何かを望むこと
信頼・・・特定人物が当然に何かをすると推測すること
強引に言い換えます。
AがBの期待に応えることによってAの次の行動をBがAに信頼する。
つまり、完全な初対面においては期待のみがあり、信頼はない。また、信頼を獲得するには、少なくとも期待されなければならない。
期待の低下の過程
幼少期において、人は周りに過保護にされている。期待も信頼も最大の状態である。泣けば、望むものが手に入る。周りの人間は下僕といってもそこまで間違いではないだろう。さらに、多くの大人たちは模範であろうとするため、そういう意味でも過保護であると言える。
しかし、どこかの国の王でもない限り期待も信頼も低下することになる。それは、環境が変化するというのが全てだろう。
例えば自分に対して危害を加えようとしたり、自分の周りの人間を虐げられたり、ゴミのポイ捨てを見たり、捨て犬、捨て猫を見たり、約束を破られたりなど(特に多いのは時間についての約束事)
これは、他者についてのみ適用されるのではなく、自身に対しても適用される。つまり、期待する対象を社会(自分をも含めた)とするならば、自分が危害を加えられなくとも、危害を加えることで社会に対して期待をしなくなるということも十分に考えられる。
期待や信頼が低下するのは、まず信頼していた人々に裏切られたからであり、それらに対して以前と同じように期待するのはどう考えても合理的ではないからである。
僕はこうした事象が多すぎて人に期待することができなくなった(too...to的な?)その要因としては殆ど自分であるので自己責任といっていい。
以前が望みすぎていただけかも知れない。皆が期待してるより、僕は余程大きめの期待をしていたから、同水準まで引き下げた。そう思うことにしている。
(人に寛容だと言われることが多い人は、この文章を読みながら頭痛くなってくれてたら理解されてるって感じです。)
ただ、僕は期待には応えたいと思う。それは、そういう世界を期待しているからだと思う。
期待感が低いことで利点があるとすれば、できる限り引き下げた期待感を超える行動を目にしたときその存在を本当に大切にしようと思えるところぐらいだと思います。
例えば、僕に何かして頂いたり、周りの人間を褒めちぎったり、ゴミ拾いを見たり、ペットを拾う少女を見たり、約束を達成してくれたり....
僕が何かすることで、社会に期待したかった。しかし、そうするには僕は余りに不完全すぎたので結局できなかったという感じですね。自分は他人を見るよりも不完全な自分を多く見るしかないというワケ。
政治家AとBのモデル
というわけで、僕は基本的に社会に対しては期待しないし信頼もしないという立場に立ちます。(当然、特定の人物に対して期待、信頼することはあります。)
そうでない人がいるなら、羨ましい限りです。(寛容さは無いので友達少ないかもしれませんけど)
ここで、一旦モデルを考えます。政治家と民衆のモデルです。政治家Aは難しい言葉を使い、政治家Bは分かりやすい言葉を使います。民衆はABの区別がありません。
ここで、民衆に対してアンケートをとります。つまり、どちらに自分たちを代表して欲しいか?という意味のものです。おおよその場合、政治家Bが当選することと考えます。それは、分かりやすいからでそれ以上の理由はありません。
しかし、政治家Bは民衆を舐め切っているとも考えることができます。難しい言葉を使っても理解されない。そうであれば、簡単な言葉だけを用い理解されるようにしよう。と、このように捉えることもできます。
政治家Aは、民衆に期待していると考えることができます。そもそも民衆は選挙に興味があるという前提なので、難しい話をしたとしても理解できるし、ある程度踏み込んだ内容を伝える必要があると考えている。
官僚文学とも言われるように、難しい言葉を使うことで曖昧さを残すことができる。確かにそういう側面があることは否定しません、しかし、曖昧にすることだけが難しい言葉の運用方法ではなく、意味を限定することもできるということです。
むしろ、莫大な数を表現する必要に追われた際に使用される言葉は難しいと考えるのが道筋として妥当かと考えます。
と、ここまで考えたときに、政治家Aは実はものすごく良いやつなのかもしれないという結論に達します。
冒頭の会話、
A「お前の話は分かりにくい。ありがとう」
(貴方の話は難しいです。けれど、僕が理解できると信頼してくれているのですね。ありがとうございます。)
B「それは、それはどういたしまして」
(やっぱり分かりにくいですか、伝わらないと意味がないので今度からは難易度を下げます)
ということで、今度はBに皮肉を言わせてみました。
とりあえず本編終了です。お疲れ様です。
人を疑うことについて
僕の身内で六花の勇者ごっこが始まりそうになったので、一応書いておきます。
疑うということは、相手を信頼しないということを示します。
すぐにモデル化します。
①犯人を疑った(☆その光景を見て不信感云々というのは重要だと思う)
②犯人を疑わなかった
③犯人でない人を疑った
④犯人でない人を疑わなかった
①④はどうでもいいですね。真実ですから。
問題は②③です。
②犯人を疑わなかった
これは、疑うということをしなかったため、褒められる行動と言えるでしょう。しかし、結果的に犯人なので、犯人が逃げて終わりです。
③犯人でない人を疑った
これは疑ってしまったため、犯人でない人に被害を及ぼした事例です。この場合、大抵は犯人でないということが明るみに出ると考えています。結局、疑った人物が糾弾されます。(疑うことについてはこのケースが圧倒的多数)
①~④より、疑わないということは、逃げといっても過言ではない。また、疑うということは、事件の責任を自分が負うという意思表明という考えも出来ると思います。
疑うことは、信頼をなくしたという意思表示なので、③の被害者は信頼していただけキレていい。信頼が大きいほど亀裂が走るので注意しましょう。
(僕としては、疑われたところで特に何も感じないので積極的にどうぞ!)
ここで一つ問題となるのは、「疑う」ことについて、行動として起こさない状態であっても糾弾されるべきかということ。
心の中で、誰かを疑ったときは一方的に信頼関係を破壊しているわけで自分が勝手に修理して良いのかということです。
これより、人を心の中で疑った人は殆どが広義の嘘つきと言えるのかも知れません。
似たような事例で部活、サークルなどの引き継ぎを考えます
①信頼して任せますわ〜
信頼はいいことですが、信頼する側に責任がなくて本当にクソ
②信頼しない、頑張って引き継ぐ
信頼しないのは悪いことですが、信頼しない側に責任があってグッド
みたいな感じです。まぁ好きな方選べばいいんじゃね?って話
信頼するしないは自己満足と言われたらそれまでなので、②を選ぶのが支配するのかもしれません。
1人嫌いな人を見つけたときに分かること
僕に人生で久々にキレる案件があった。期待が低いといってもやはり許される者ではないと素直にそう感じた。
嫌いな人(道徳的でない人)を見つけたときに、考えるべきことについて書きます。
嫌いな人にもやはり、人が人間である以上周囲の人々がいるわけで、その人間がどういう人間かについてパターン分けします。
①類は友を呼ぶパターン
クズの周りにはクズ。その周りにもクズ.......
ということで、僕も貴方もみんなクズ!yeah!!happy!!
②慈悲深い方々に囲まれている
良い奴過ぎるから、クズみたいな奴にもきちんと付き合いますよっていう。
(敢えて付き合う必要がないのでこの可能性は少ないと考える)
③クズと会うときはクズで、他の人とは普通
人として二面性がありますよってだけ。
自分の周りの人間にクズがいない(①不成立)と仮定してさらに考察すると、先ほど③が成立したのと同じように考えることができます。
つまり、自分がわかる範囲ではクズはいないけど、実際にはクズがいる可能性を認めざるを得ないということですね。
クズを一人見つけた段階で、人類が全て良い奴という線は消えるので、悲しみに暮れながら空を見上げましょう。
自分がクズで②を適用できれば、自分にとっては非常に嬉しいと言えるかもしれません。(僕は絶対にイヤですけど)
結構長くなったんで、分けて書けば良かったと後悔してます(してません)
別れ
SNSが発達したことによって、意識しないといけない大きな点を述べます。
僕も改めて意識したい案件だからです。
別れというのは、出会う以上仕方ないもので(詩人ではないです)別れの際に想いの丈をぶつける的なことはよく行われています。良い意味でも悪い意味でも。
SNSが発達していない時代では、ゲーム理論における最後の一手、つまり、裏切ることによって最大の効用を得る状態にあったと思われます。制裁が加えられないと考えて頂ければ大きくは外していないと思います。
現在は、別れた後でも簡単に情報をやるとりすることができます。
(狭義の別れとは即ち死を意味する ハリネジミ)
つまり、誰がなにをされたかについて克明に不特定多数に伝えることが可能です。
とすると、別れ際の情報を社会は保持するわけで、思いの丈をぶつけた人は、それ相応のお返しを受けることになります。
嫌いな人を誰かに伝えることは意味あるのか(自己満足ではないのか)ということを考えていましたが、多分、上記のような意味はあります。
実際にしている訳ではありませんけど、Aを信頼している人に対して
「A君はこんなときに、こんなことがあってこうしたんだよ!だから僕は嫌い!なんで君はそんな奴と一緒にいるの????」
って言ってもいいんですけど、言わないのは、僕の知らないAの良い部分があると信じているからです。
ということで
別れ際に、僕及び周囲の人に何かした人/する人は震えて待て