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現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

笑いについて本気出して考えてみた

 

 

 色々な経緯があって、高校生のとき(中学生もか?)にお笑い担当をさせられていたので笑いについて考えることが多かった。そこで、今回は僕なりに「笑い」について書いていきたいと思います。僕は人によって、ボケともツッコミとも言われるので偏りまくった意見にはならないと信じています。

 お笑い芸人の評論家様ではないですので、そういうのが苦手な方でも安心して読むことができます。

 

 僕がお笑い担当をさせられていたという点で、1つ興味深いところは高校1年生の時は学年で5本の指に入るほどの陰気な奴だったということです。また、興味のある方は直接聞いて頂ければ環境がどれくらい恐ろしいのかをお教え致します。

 


 

 

 笑いについて書くからといって、これから読む文章が笑えるかというとそうではないということは付け加えておきます。

 ただ、面白く感じてくれるようには努力して書きますので、どうぞ。

 

 ちなみに僕が、笑いについて考えるようになった時期は2回あって、1回目は高校生の頃、自分で一発ギャグを考える必要があったため、どうすれば面白くなるのかを考える必要があったから。

 2回目は殆ど現在で、ツッコミ=批判という啓示を受けたことに起因します。『一億総ツッコミ時代』という本がえらく話題になったため、この考え方は共有されているものと考えます。

 こういったことが背景にあると、これからの話が少しは分かりやすくなるかもしれません。

 

というわけで恒例の目次です

 

ボケに規定されるツッコミ

ツッコミと批判の違い

面白さとは何か

本当に面白い人は人から好かれている人

 

 

ボケに規定されるツッコミ

 

 ツッコミ自体を笑いと考えている人もたまにいるので、ここは丁寧に書いていこうと思います。確かに、ツッコミのすぐ後に笑いが起きます。その意味でツッコミ=笑い製造機と考えてもいいのかも知れません。しかし、実際はボケの存在なくしてはツッコミが生まれることはなく、ツッコミだけをもって笑いを語るのは殆ど不可能だと考えます。何もないところから笑いの要素を生み出すのはボケで、そこに乗っかるのがツッコミということになるでしょう。

 ボケの敷いたレールの上にツッコミが乗っている。つまり、ボケはツッコミをある程度拘束します。ツッコミの美しさはボケに依拠することは間違いないでしょう。あるボケがあり、それを完全に無視したツッコミ(シュール的な意味で笑いはあるけど)は面白くないのは考えずともわかると思います。

 ボケだけでも、笑いが成立することを示したのが「ハライチ」で笑いを考えるに当たっては非常に重要な芸人であると考えます。

 殆ど、繰り返しの内容になりましたが、この文章においてはツッコミの社会的地位が下がったということだけ認識して頂ければ幸いです。

 

 

お前ってツッコミタイプやんな?

お前ってボケタイプやんな?

 

 まぁ関西人ならどちらか片方に分けられると思うんですけど、大体の傾向としてお調子者はツッコミで、天然系がボケと言われています。

. 僕は、一時期ツッコミタイプと言われることに強い拒否反応を示していました。その理由は前述したとおり、ツッコミは広義の批判だと考えているからです。人は批判する人間に対してあまりいい感情を抱きません。これは、経験的に明らかなことなので敢えて証明はしませんが、知りたいという方はお近くの書店で適当な大衆心理学の本を読めば書いてあると思います。(正確な定義では批判より、非難の方が適切かもしれないですが、伝わりやすさの面から批判という語を用いています)

 ツッコミは相手の言動を大声で否定します。「なんでやねん」「んなアホな」などなど、数えればキリがないほどですね。否定されて好感を持つ人間は少数派なのであって、基本的には嫌われます。しかし、笑いにおいては、否定は許容されその重要な要素として君臨しています。更に言うなら、人に好かれるツッコミというのは多く存在しています。

 この矛盾は興味深いと思います。(思いません?)

 

 

ツッコミと批判の違い

 

 先ほど、ツッコミと批判が似ている事を書きました。ここからは、それを踏まえて何が違うのかを考えてみます。

 簡単でかつ重要な点として、ボケとツッコミの間に信頼関係が気づかれているという点が挙げられます。批判は基本的に他者からされるものであり、そこに信頼関係が気づかれていないのが通常だからです。しかし、ボケ、ツッコミ間では、極めて高度な信頼関係が気づかれていることが芸人の苦労話などを聞いていると理解できます。

 この信頼関係は、イジられ系の人間が見知らぬ人から突然イジられてマジギレするのと共通するものがあります。たまにイジって来る人は、こちら側がどれくらいの寛容さを持っているかも知らない場合があり、そういうこともキレる要因となっています。

 この話は

hozamat.hatenablog.com

この記事とも共通する点があると思うので、暇な方はそちらもどうぞ。

 話がズレてしまったので戻します。

 信頼関係が築かれていることのメリットは、頭を強く叩かれても怒らないとか、否定されまくっても怒らないとかいう表面的な部分でだけではなく、ボケる瞬間に重要な役割を果たします。つまり、ツッコミがどれくらいボケに対応することができるのか?という点においてです。ボケにとって一番恐ろしいことは、ボケがボケと理解されずにスルーされることであり、ボケはボケと認識できるようなボケをツッコミに対してする必要があります。そこで、信頼関係や相手のことを深く知ることが大切になってきます。

 相手のことを知らない場合、一般的な流行りに頼るのが最も安牌だと考えます。そのため、初対面の関西人の会話はそういったものを取り入れたものだと推察します。

 

 もう一つ、ツッコミが批判と違う点は、ボケの機会を与えるという点にあります。批判は被批判者からの言葉を待っていることは少ないと思います。(その場合単に指摘といって差し支えないと感じます)ボケの後のツッコミによって、再度ボケをする機会を作ることができます。この考え方に立つと、ツッコミ<ボケという構図が説得力を増します。

 

 

 

面白さとは何か

 

 と、ここまでお膳立てしてきたので、そろそろ本題に入りたいと思います。笑いについて具体例を提示するのは非常に難しいので、わかりにくくなるかもしれません。予め謝罪しておきます。

 

 ここで、この記事のタイトル「笑いについて本気出して考えてみた」というのを見て、面白いと思って頂いた方は何人かおられると思うんですけど、殆どの方はつまらなく感じていると思います。(僕のボケがつまらないのは自明としても)

 それはなぜかというと、このタイトルがポルノグラフィティの『幸せについて本気出して考えてみた』という歌のタイトルのパクリという事実を知らかったからだと思うんです。まだ、貴方がこのタイトルを見て面白くなかったとしても、面白いのだろうと納得はされたかと思います。

 つまり、笑いには共通認識が非常に重要な意味合いを持つということです。

 

 これ以上具体例を出すのは心苦しいので、面白い出来事に照らし合わせて考えてみてください。

 

 ここからは、ボケからツッコミまでのプロセスを解説します

※あくまで個人の見解です

 

具体的な事象A→抽象化→具体的なボケB→抽象化→具体的なツッコミC

 

ボケがなく、自然現象に対してなどにツッコむときは

 

具体的な事象A→抽象化→具体的なツッコミB

 

漫才などで、初めの具体的な事象がない場合は自明ですが

 

具体的なボケA→抽象化→具体的なツッコミB

 

とこのようなプロセスを経ると考えます。

 

 

「グローバル人材って言葉、ルー大柴が作ったとしか考えられない」tweeted by ハリネジミ

 

という奇跡的に面白い文章があったとします。

 

グローバル人材(具体的な事象)→日本語と英語の組み合わせ(抽象化)→ルー大柴が作った(具体的な自称)

 

したがって、ルー大柴が作ったと言った段階で、抽象化の部分を理解することができます。それを理解できないと笑いから取り残されることになります。

 

 

 繰り返しになりますが、ツッコミは抽象化がどうやって行われたのかを聴衆に提示することになります。そこで、聴衆は理解し納得し笑いが起きると考えています。ツッコミが面白いとされるのはこうした効果によるものだと思います。笑いにおける繰り返しが重要な意味を持つのもここから容易に理解されることと思います。

 つまり、ボケの名手もツッコミの名手も抽象化と具体化が得意と結論付けることができるでしょう。

 聴衆は抽象化、具体化を追体験することによって笑い、笑うことで、追体験できたことを示すことができます。

 ここでも、重要になってくるのは聴衆のレベルであり、どの程度のことまでが共通認識として、換言するなら抽象化され得るのかについて知っておくことが必要になります。わかりきったことに対しては驚きはなく、敢えて理解できたと示す必要はないからです。

 また、同時に次のようなことが言えるかもしれません。笑いが具体化、抽象化を追体験して得られるものであれば、単に抽象的なものを提示することで、聴衆が具体化できたときには面白さを感じることができるのではないか?ということです。

 ここで、僕が言いたいのは、抽象的なこと、一般化されたもの話しているのはそこに何らかの意味を汲み取れれば面白いかもしれないということです。

 

 

本当に面白い人は人から好かれている人

 

 Naverまとめみたいな小見出しですが、気にせず行きましょう。先程までの議論が正しければ、笑うことで共感を示すことができます。共感を示す必要があるのは好意を示す必要があるからと言って良いほど密接な関係があります。興味がある方はお近くの書店で大衆心理学の本を読めば書いてあると思います。

 故に、面白い人間になるためにはどうすればいいか?と訊かれた時に

 

人に好かれる人間になれ

 

というのは何も間違いではなく、適切なアプローチと言えます。

 

(人に好かれるために面白くなろう的な本が巷に散乱しているのは中々面白いことではありますが)

 

 まぁあれですね、そこまで面白い話でもないのに大笑いしてる人見るとこの人あの人のこと好きなんだなぁって思いますね。

 

 逆に、僕があの人のこと嫌いなんだなぁって感じる原因にもなったりしますけど。だから、皆が笑ってるときに笑えないとどこがどうして面白いのか執拗に質問してしまうのかも知れません。

 

 

 

今夜は月が綺麗ですね

 

 

 

 

 

 

期待と信頼

 

 

 

 最近、書こうと考えてた内容に色々な出来事が重なったので、公開してみようと考えました。

  論理構成がガバガバのような気がするんで、論理ガチ勢からしたら読みにくいことだと思います。(今から書きます)

 ここまで来たら頑張って読んでください。

 

 政治家AとBのモデルで一区切りです。それ以降は1つずつ独立した話です。

 

目次

 

期待と信頼の定義

期待の低下の過程

政治家AとBのモデル

人を疑うことについて

1人嫌いな人を見つけたときに分かること

お別れ

 

 


 

 

 A「お前の話は分かりにくい。だから、ありがとう」

 

 B「それは、それはどういたしまして」

 

 

 このAは皮肉ではなく成立するという話。だから、特に違和感がないという人は完全に時間の無駄だから戻るボタンorタスクキル推奨ということで。

 

 僕の話すことは、基本的に極論だと思うから語尾に(諸説アリ)というのを付けて読むぐらいがちょうどいいかも知れない。

 

↑この文章を読んで、感じ方は人それぞれだと思うが大きく分けて以下の4つが挙げられると考える。

 

①何言ってるのかわからねーよふざけんなカス!!!!

②あ、そうですねハイ

③えらく親切ですね

④そんなことぐらい分かっとるわ!舐めとんちゃうぞゴミ!!!

 

  自分がどんなタイプに該当するか一度選んでもらうと、どんな立場の人について書いているかが多少わかりやすくなると思います。

 

 


 

 

期待と信頼の定義

 

 何かを論じるためにはまず定義が重要ということで、定義していきます。辞書を引用してもいいんですけど、パクリに厳しい世の中なので参考にしながら定義します。この話は特に対人関係を想定するので、それも踏まえて。

 

 期待・・・特定人物に何かを望むこと

 信頼・・・特定人物が当然に何かをすると推測すること

 

 強引に言い換えます。

AがBの期待に応えることによってAの次の行動をBがAに信頼する。

 

 つまり、完全な初対面においては期待のみがあり、信頼はない。また、信頼を獲得するには、少なくとも期待されなければならない。

 

 

 

  

期待の低下の過程

 

 幼少期において、人は周りに過保護にされている。期待も信頼も最大の状態である。泣けば、望むものが手に入る。周りの人間は下僕といってもそこまで間違いではないだろう。さらに、多くの大人たちは模範であろうとするため、そういう意味でも過保護であると言える。

 しかし、どこかの国の王でもない限り期待も信頼も低下することになる。それは、環境が変化するというのが全てだろう。

 例えば自分に対して危害を加えようとしたり、自分の周りの人間を虐げられたり、ゴミのポイ捨てを見たり、捨て犬、捨て猫を見たり、約束を破られたりなど(特に多いのは時間についての約束事)

 これは、他者についてのみ適用されるのではなく、自身に対しても適用される。つまり、期待する対象を社会(自分をも含めた)とするならば、自分が危害を加えられなくとも、危害を加えることで社会に対して期待をしなくなるということも十分に考えられる。

 期待や信頼が低下するのは、まず信頼していた人々に裏切られたからであり、それらに対して以前と同じように期待するのはどう考えても合理的ではないからである。

 僕はこうした事象が多すぎて人に期待することができなくなった(too...to的な?)その要因としては殆ど自分であるので自己責任といっていい。

 以前が望みすぎていただけかも知れない。皆が期待してるより、僕は余程大きめの期待をしていたから、同水準まで引き下げた。そう思うことにしている。

 (人に寛容だと言われることが多い人は、この文章を読みながら頭痛くなってくれてたら理解されてるって感じです。)

 

 

 ただ、僕は期待には応えたいと思う。それは、そういう世界を期待しているからだと思う。

 期待感が低いことで利点があるとすれば、できる限り引き下げた期待感を超える行動を目にしたときその存在を本当に大切にしようと思えるところぐらいだと思います。

 例えば、僕に何かして頂いたり、周りの人間を褒めちぎったり、ゴミ拾いを見たり、ペットを拾う少女を見たり、約束を達成してくれたり....

 

 僕が何かすることで、社会に期待したかった。しかし、そうするには僕は余りに不完全すぎたので結局できなかったという感じですね。自分は他人を見るよりも不完全な自分を多く見るしかないというワケ。

 

 

 

政治家AとBのモデル

 

  というわけで、僕は基本的に社会に対しては期待しないし信頼もしないという立場に立ちます。(当然、特定の人物に対して期待、信頼することはあります。)

 そうでない人がいるなら、羨ましい限りです。(寛容さは無いので友達少ないかもしれませんけど)

 

 

 ここで、一旦モデルを考えます。政治家と民衆のモデルです。政治家Aは難しい言葉を使い、政治家Bは分かりやすい言葉を使います。民衆はABの区別がありません。

 

 ここで、民衆に対してアンケートをとります。つまり、どちらに自分たちを代表して欲しいか?という意味のものです。おおよその場合、政治家Bが当選することと考えます。それは、分かりやすいからでそれ以上の理由はありません。

 

 しかし、政治家Bは民衆を舐め切っているとも考えることができます。難しい言葉を使っても理解されない。そうであれば、簡単な言葉だけを用い理解されるようにしよう。と、このように捉えることもできます。

 

 政治家Aは、民衆に期待していると考えることができます。そもそも民衆は選挙に興味があるという前提なので、難しい話をしたとしても理解できるし、ある程度踏み込んだ内容を伝える必要があると考えている。 

 官僚文学とも言われるように、難しい言葉を使うことで曖昧さを残すことができる。確かにそういう側面があることは否定しません、しかし、曖昧にすることだけが難しい言葉の運用方法ではなく、意味を限定することもできるということです。

 むしろ、莫大な数を表現する必要に追われた際に使用される言葉は難しいと考えるのが道筋として妥当かと考えます。

 

 と、ここまで考えたときに、政治家Aは実はものすごく良いやつなのかもしれないという結論に達します。

 

 冒頭の会話、

 

 A「お前の話は分かりにくい。ありがとう」

(貴方の話は難しいです。けれど、僕が理解できると信頼してくれているのですね。ありがとうございます。)

 B「それは、それはどういたしまして」

 (やっぱり分かりにくいですか、伝わらないと意味がないので今度からは難易度を下げます)

 

 ということで、今度はBに皮肉を言わせてみました。

 

 とりあえず本編終了です。お疲れ様です。 

 

 

 

 

人を疑うことについて

 

 僕の身内で六花の勇者ごっこが始まりそうになったので、一応書いておきます。

 

 疑うということは、相手を信頼しないということを示します。

 

 すぐにモデル化します。

①犯人を疑った(☆その光景を見て不信感云々というのは重要だと思う)

②犯人を疑わなかった

③犯人でない人を疑った

④犯人でない人を疑わなかった

 

①④はどうでもいいですね。真実ですから。

問題は②③です。

 

②犯人を疑わなかった

 これは、疑うということをしなかったため、褒められる行動と言えるでしょう。しかし、結果的に犯人なので、犯人が逃げて終わりです。

 

③犯人でない人を疑った

 これは疑ってしまったため、犯人でない人に被害を及ぼした事例です。この場合、大抵は犯人でないということが明るみに出ると考えています。結局、疑った人物が糾弾されます。(疑うことについてはこのケースが圧倒的多数)

 

 ①~④より、疑わないということは、逃げといっても過言ではない。また、疑うということは、事件の責任を自分が負うという意思表明という考えも出来ると思います。

 

 疑うことは、信頼をなくしたという意思表示なので、③の被害者は信頼していただけキレていい。信頼が大きいほど亀裂が走るので注意しましょう。

 (僕としては、疑われたところで特に何も感じないので積極的にどうぞ!)

 

 ここで一つ問題となるのは、「疑う」ことについて、行動として起こさない状態であっても糾弾されるべきかということ。

 心の中で、誰かを疑ったときは一方的に信頼関係を破壊しているわけで自分が勝手に修理して良いのかということです。

 これより、人を心の中で疑った人は殆どが広義の嘘つきと言えるのかも知れません。

 

 

 似たような事例で部活、サークルなどの引き継ぎを考えます

 

①信頼して任せますわ〜

 信頼はいいことですが、信頼する側に責任がなくて本当にクソ

②信頼しない、頑張って引き継ぐ

 信頼しないのは悪いことですが、信頼しない側に責任があってグッド

 

 

みたいな感じです。まぁ好きな方選べばいいんじゃね?って話

 

 信頼するしないは自己満足と言われたらそれまでなので、②を選ぶのが支配するのかもしれません。

 

 

 

 

1人嫌いな人を見つけたときに分かること

 

 僕に人生で久々にキレる案件があった。期待が低いといってもやはり許される者ではないと素直にそう感じた。

 

 嫌いな人(道徳的でない人)を見つけたときに、考えるべきことについて書きます。

 

 嫌いな人にもやはり、人が人間である以上周囲の人々がいるわけで、その人間がどういう人間かについてパターン分けします。

 

①類は友を呼ぶパターン

 クズの周りにはクズ。その周りにもクズ.......

ということで、僕も貴方もみんなクズ!yeah!!happy!!

 

②慈悲深い方々に囲まれている

 良い奴過ぎるから、クズみたいな奴にもきちんと付き合いますよっていう。

 (敢えて付き合う必要がないのでこの可能性は少ないと考える)

 

③クズと会うときはクズで、他の人とは普通

  人として二面性がありますよってだけ。

 

 自分の周りの人間にクズがいない(①不成立)と仮定してさらに考察すると、先ほど③が成立したのと同じように考えることができます。

 つまり、自分がわかる範囲ではクズはいないけど、実際にはクズがいる可能性を認めざるを得ないということですね。

 クズを一人見つけた段階で、人類が全て良い奴という線は消えるので、悲しみに暮れながら空を見上げましょう。

 自分がクズで②を適用できれば、自分にとっては非常に嬉しいと言えるかもしれません。(僕は絶対にイヤですけど)

 

 

 

  結構長くなったんで、分けて書けば良かったと後悔してます(してません)

 

 

 

別れ

  

 SNSが発達したことによって、意識しないといけない大きな点を述べます。

僕も改めて意識したい案件だからです。

 別れというのは、出会う以上仕方ないもので(詩人ではないです)別れの際に想いの丈をぶつける的なことはよく行われています。良い意味でも悪い意味でも。

 SNSが発達していない時代では、ゲーム理論における最後の一手、つまり、裏切ることによって最大の効用を得る状態にあったと思われます。制裁が加えられないと考えて頂ければ大きくは外していないと思います。

 現在は、別れた後でも簡単に情報をやるとりすることができます。

 

 (狭義の別れとは即ち死を意味する ハリネジミ)

 

 つまり、誰がなにをされたかについて克明に不特定多数に伝えることが可能です。

 とすると、別れ際の情報を社会は保持するわけで、思いの丈をぶつけた人は、それ相応のお返しを受けることになります。

 

 嫌いな人を誰かに伝えることは意味あるのか(自己満足ではないのか)ということを考えていましたが、多分、上記のような意味はあります。

 実際にしている訳ではありませんけど、Aを信頼している人に対して

 

「A君はこんなときに、こんなことがあってこうしたんだよ!だから僕は嫌い!なんで君はそんな奴と一緒にいるの????」

 

って言ってもいいんですけど、言わないのは、僕の知らないAの良い部分があると信じているからです。

 

ということで

 

 別れ際に、僕及び周囲の人に何かした人/する人は震えて待て

 

 

 

 

 

 

 

診断テスト

 

 自分がどういう性質なのかってのは、自分で考えても分からないと考えてる。だから、診断テストは結構活用させてもらっている。やってて楽しいし、皆さんにもオススメ。

 

自分のことが知りたいのに、その自分が歪んでいたら正確な判断なんてできませんよね!!

 

てか、ある程度質問多かったら当たってない方がおかしいというか、質問の項目を文章にしただけの結果が出てきたりする診断とかもあるし、こういうのを信用しないとか言ってる人も一回ぐらいやってみてもいいかも。

 

 

 有名だと言われている

seikaku7.com

をしたんですけど、僕はINTJでした。

辛口診断を簡易の方でやっても結果は変わらなかったんで時間ない人とか、スマホの人にオススメです。

 

 

 端的に言うとコミュ障なんで皆さん介護して下さい。

 

 

完璧主義と書いてあったんで、ついでにそれも調べてみました。

 

mirrorz.jp

 

僕はタイプ1でした(半ギレ)

(完璧主義者ってのあんまり良い性格とは思えないから、無い方が良かった)

時間に厳しい人とか完璧主義者っぽい感じなんで一回見てみてもいいかもしれないです。

僕もそこまで自覚してなかったんで、自覚せずに完璧主義者と判定される人は結構多いのではないかと考えます。

 

他の診断にも興味がある方には

vcap.vone.co.jp

こちらもオススメしておきます。

適職診断用のものなので就活を見据えている人とかはこっちのほうがいいかもしれません。

 

 

 

 

 これだけ前振りしたけど結局言いたいことは、

 

ESFJの人がいたら教えてください。すべての相性の中で一番快適だと書いてありました。

どのくらいこの診断が合っているのか、誰がその性格なのか知りたいので是非会いましょう(出会い厨)

 

現実と虚構の狭間で

四時間暇潰しできたし、神のコンテンツという他ないな! 

 「小説家になろう」に投稿しました

以後、小説家になろうに投稿すると思います。

 

※あまり構想を練ってないから読みにくくなるかも知れません。その辺は諦めてください。(いつも構想練っててアレかよとか言わないようにな!)

 

 今、生きているその人、つまり、私や貴方がどうして「私」や「貴方」になったのか。その問に答えを出すのは容易ではないだろう。これは、個人としての自己がどのようにして始まったのかと換言できる。換言したが、私達が始まりを言い当てるのは不可能だと言っていい。なぜなら、自己の始まりはそれを認識する主体が発生する境界にあるからだ。しかし、見方を変えるなら、境界にあるが故に可能であるとも言える。

 自我の形成と自己の形成。自我の形成が自己を生み出すのか、自己の形成そのものが自我と呼ばれるのか。結局は「鶏と卵」といった類の話なのかも知れない。

 成熟した大人は形成された。大人であるが故に。大人と子供といった距離のある両者は互いを認識することが難しい。自我の形成された大人が子供を観察し、記述したとしても、それは単に虚構といって差し支えない。心理学の実験においても、子供時代の記憶は容易に改竄できることが知られている。ただ、これには条件があり改竄するためには信頼できる人の言葉が必要だということだ。つまり、信頼できる人はそれ故に真に信頼できる人ではない。即ち、自己の始まりを主体に認識させるのではなく、非常に身近な存在である客体にさせ、それを自我の芽生えた後になってから聞いたとしても何の意味も持たないということだ。

 その意味でこの物語はフィクションだ。なぜなら、私は大人と呼ばれる年齢になったからだ。しかし、もう一方ではノンフィクションだと言ってもいいだろう。むしろ、一般的な分類としてはこちらに属するのだろう。だからといって私はこの意見を読者に押し付けはしない。従って、私を子供と大人の正に境界だとして、フィクションでもあり、ノンフィクションでもあるとするのか、また、どちらでもないとするのかといった問題は未だ解かれないままになっている。

 述べるまでもなく、小説なのか評論なのかといった分類は重要ではあるが、ある文章の本質を捉えることに役に立つわけではない。どういう形式なのかという予測に役立つとしても、内容を予測するのには役に立たない。だが、私は分類の全てを否定するわけではなく、過去の辛い経験を小説にしてノンフィクションだと名付けるたとするならば本質を捉えていると言う人もいると考えている。共感によって同情を誘いたいと考える作者であれば、そうするだろう。

 私の持つ古い記憶は先ほど述べたように修正されている可能性があるのだが、その中で唯一確信の持てる記憶はテレビを見ている記憶だ。これは、私でなくても言える当然の記憶。ハイハイをしたとか、立ち上がったとか、ご飯を食べたとか。これらのように、記憶がなかったとしても一般的に考えれば経験していて当然の記憶。なので、それについて言及しても意味はないと考えているだろう。

 だけれども、AがBを規定し、BがCを規定し、Cが自己を規定している場合に私はCを認識できるだろうし、ひょっとするとBを認識できるだろう。そういった意味での記憶。記憶を改竄されたとするならば、Aから自己への流れはこれ程美しくはないだろう。そう考えられたなら、私が確信を持って記憶だと言える記憶はAである。古い出来事は長期間、多くを規定していく。古ければ古いほど観察できなくなっていき、古ければ古いほど推論できるのかもしれない。

 

 

 教育番組を見ていた。だからといって教育されたかったわけではないだろうと思う。能動的な教育は単に勉強と言っていい。理解できる番組がそれしかなかった。そう考えるべきなのだろう。当時はまだ幼稚園児だった私には物事を考える能力が殆どなかった。無知であったし、そのために無垢でもあった。

 今思うと理解しすぎたのかもしれない。ただ、理解しすぎたと知ってAをA'に変化させたとするならば、この文章は生まれたかっただろう。その主人公である私も同じように。

 「ともだちひゃくにんできるかな〜...」歌詞を聞いていた。意味を汲み取るには簡単すぎる詩。友達を作ることはよいことで、沢山の友達が居れば楽しい日々が送れるのだ。さらに、それは一般的なことである。それに近いことを考えた。幼稚園児だった私は一年生になる前に友達を作ることに躍起になった。小学校の一学年に百人もいないのだから。

 出会う同世代全ての人間に声をかけた。男性女性問わず。恐らく、人生で一番輝いていた時期だと評価されるのはこの時点だろう。私の考えた友達の作り方は、まず名乗り、名前を訊ね、友達の契約を結ぶ。こういったものだった。こうして友達を作ったあとに頭の中で人数をカウントしていくのが当時の最大の楽しみだった。時には同じ人に対して契約を二度結ぼうとしたこともあったが、大抵の場合、二度目の契約は向こう側から拒否されるのだった。

 名前を聞いておきながら、関心があるのは数字だった。友達を作りながら。

百人の友達を作れずに小学校へ入学した私は、ひどく自分を恥じたように記憶している。ノルマの半分も達成できていなかったからだ。当然、授業が進んでいく中でも百人を超えることができず、楽しい学校生活を送る条件を達成することはなかった。

 しかし、驚いたことに同級生の殆どは私と同じように百人のノルマを達成できていなかった。私は嬉しかっただろう。閉鎖された空間が開いていくように見えたのだから。しかし、驚いたことに同級生の殆どは私と異なり楽しい学校生活を送っているようだった。

 楽しそうな同級生を見て私は考えた。楽しい生活を送るのは単に友達の数ではなく、他の理由があるのだろうと。よく観察してみると、友達契約を結んでいるものはいないし、私のように数字を重視している者もいなかった。友達というのはそれ自体が重要なのではなく、それによって得られる経験こそが大事なのだとその時気づいた。当時の私といえば、一方的に友達契約を結んだだけで、それ以降は話すことがなかった人の方が多かった。そんな人間に友達と呼べる人間は一人もできない。私は友達を押し付けていた。

 

 

 月日は流れ、小学四年生になる。私はクラスで一人というわけではなかったが、客観的に見ても友達の数は少ない方だったと思う。私は友達の数が重要ではないと学んだあの日から、他人の気持ちを考えるようになった。本当の友達とは契約によってではなく、お互いに友達だと認め合うことによって成立すると考えた。

 だが、いくら考えても他者の気持ちを完全に理解することは不可能である。

 だから、自分から話しかけることは少なくなった。相手は友達を強制させられているのかもしれない。全く面白くもないのにつまらない人間と話しているのかもしれない。そういう思考の果てだった。もし、話しかけられることがあれば話しかけてきたそいつの責任だとして、話しても良いだろうという考えにも同時に至った。だが、話を切り上げたくても切り上げられずに強制していることもあるだろうと考えた。そこで、面白い話をするようになった。自分のできる範囲ではあるが、それなら、例え強制だったとしても許されると考えた。多分、そうあって欲しいと願った。

 当時、イジメが全国的なニュースになり、学校側も対策に追われる事態となった。対策といってもアンケートをして、イジメがないことを文字通り確実にするという内容だったと思われる。それは、匿名のアンケートで非常に簡単なものだった。早い人なら一分も要らない。そのアンケートにこんな質問があった。

 「あなたは友達が何人いますか?数字で答えてください。」

 この単純な問を目の前にして私は一年生の頃の記憶が蘇り、少し気分が悪くなった。友達において重要なのはその数字ではない。そう言いたかった。だからといって、現実で言うことはしなかった。流石にクラスの迷惑になると思ったからだ。また、言っても理解されないと思った。そうこうしている内に気分が晴れた。なぜなら、あの頃の私とは違うのだから。友達を単に数字だけで評価しているのは馬鹿のすることだとそう思った。他の人はまだ気付いていないのかもしれないが私は気付いた。この問いに答えがあるとしたら、やはり一つしかないだろう。なので、私は自信を持ってこう回答した。0だと。

 ところが、残念ながら唯一の不正解だったらしい。基本的にアンケートは正解発表されないのだが、私にだけ不正解発表がなされた。それは、校内アナウンスを通じて、呼び出しを受けた私に知らされた。先生と二人きりの教室で直接。一応、真面目に過ごしていた私は大変驚かれた。「どうして友達がいないの?」そんなことを平気で言ってきた。私は、ひどく失望していた。不正解だとしれされても尚、正解だと信じているから。だから、先生の問には答えなかった。答えられなかったのではなく答えなかった。答えても理解されないと思った。不正解と正解の距離は余りに遠く、そのために、お互いを理解することはできないのだとそう思った。理解できるとすれば、小説などによって他者の経験を追体験することによってしかないだろう。

 後日、親と先生の面談があったのは言うまでもないことで、先生の問いに私が答えられなかったことが伝わったのも言うまでもないことである。ただ、この内容に対して母が「友達の定義によるんじゃないですかね」と答えたことに関しては言及しても良いだろう。

 大学生になった私は「お前友達いるの?」と聞かれたら今でも「いない」と答える。いないと答えるが、冗談のように言う。冗談として通じているかは疑問だがとりあえず冗談ということになっている。理由を聞かれて上記の話をしてもいいが、つまらない。

 面白くない会話は極力しない主義だ。だが、友達がいないと答える理由が面白くなかったとしても、強制されない環境であれば伝えてもいいだろう。

 

 私の経験を何人に伝えることができて、何人に伝わったのかという答えは未だに解決されていない。ただ、0が正解でないことだけ確実に言える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*補足 

正と不の境界が0みたいなところある

 

自由研究

 

 私がまだ小学生だった頃、他の小学生達と同じように夏が好きだった。少し肥満気味の現在では少し考えづらいことであるが、そう記憶しているのだからそうなのだろう。夏は暑くてやる気が削がれてしまう。そこは、小学生の私も同じであって、夏休みの宿題を最後まで貯めておくタイプの生徒だった。したがって、当時の私にとっての夏とは大好きであり、大嫌いでもある期間であった。

 夏休みがこんなに愛されるのは、通常学校に行くことを強制されているからだろうな、と考える。強制から自由になることに人は幸福を見出すらしい。しかし、かつての私、いや、私達を苦しめた宿題の王、自由研究もある意味そういう面があるように感じる。ドリルなどはただ淡々とこなすだけでよく、そこに発想は必要ない。ただ、自由研究に限っては発想なしには終わらせることができない。

 自由研究がとにかく嫌いな私は、夏休み終わりの最初の授業に出したことはなく、結局小学校を卒業するまで一回も提出することはなかった。小学校を卒業した時の感動は忘れられない。もうあの忌々しい自由研究をしなくて済む、そう思った。実際は一度も提出していないのだからあってもなくても同じではないか、と思うかもしれない。しかしながら、教師に毎日宿題を催促されるのは子供にとってかなりの苦痛だった。提出しない自分が悪いことはわかっていた。それどころか、何か仕打ちがあるのではないかぐらい思っていた。

 

 私が大学生になった頃から、政府の活動が活発になってきた。勢いはなにかの宗教なのかと勘ぐってしまう程だった。その内容というと、「自由を拡大する」というものであった。制限は最低限度に抑え、自由な領域を拡大し続けるというものであった。正直、今思い出すから書けるのであって、私がどれだけ理解できていたのかは定かではない。私は私が自由を拡大するのは素晴らしいことだと思っていたことを覚えている。なぜなら、これまでの歴史とは自由の追求によって生まれたといっても過言ではないような気がするからだ。

 この政策は人々の支持を強く集め、私が社会人になる前にほとんどの領域が自由になった。これについては、選挙権のなかった小学生が聞くと反対したかもしれない。しかし、殆どが自由になったからといって、犯罪が容認されるわけでなく民が自由に処罰する。これは、余りにも強いと制裁を喰らうため、結果として、以前とあまり変わりがない。

 大人になると、全てが自由になった。仕事に行くのも、税金を納めるのも。しないのは自由であるが、見返りを受けられないだけである。だから、私は渋々ながら、給与の高い政府に務めることにした。私の部署は、簡潔に言うとクレーム処理係で、頭の悪い私にはここぐらいしか行くところがなかった。

 

 

 

 

 少し物思いにふけっていたのは、夜遅くまで家で残業をしていたからだろう。これも、私の自由意思である。当たり前のことではあるが。

 

気分転換にテレビを付けると、コメンテーターが今日も同じ調子で話している。

 

「強制された自由は、果たして自由と言えるのでしょうか?」

 

私達、大人の自由研究は終わりそうもない。

 

伝わりようのない主張

 

 論理的でありさえすれば、主張は必ず通る。なんてことを思って生きている人はどれくらいいるのだろうか。

 

 少なくとも私は違う。

 

 むしろ、論理的でない方が伝わることもある。論理的であるとは一般、抽象化することであり、内容が複雑になれば同じように複雑になり、当然論理の飛躍は許されず、一歩ずつ前進していくしかない。

 

 個別具体的な事象に基づいた物語は聞き手が納得しさえすれば、成立し論理的であることは望まれず、論理の飛躍があっても良い。

 

 このあたりが、評論、随筆、小説の決定的な違いともなると考える。

 

人に言いたいことが伝わらない

 

 そう嘆く殆どの人が目指すのはロジカル・シンキングなどの論理的な思考法や記述法であると考える。それだけで、全てが伝わるかのように見える。

 

 


 

  「生物は子孫を残すために生きています」

 

 そう定義された。中学も、高校も。子孫が残せない人は生きる価値がないのだと知った。かといって、生殖能力のない障害者は擁護せよ、と言う。改めて言及するまでもなく矛盾している。

 もし仮に、生物がそう定義されるなら幾らか救われる。定義されていなければどう行動すれば良いかわからないからだ。それに、彼女ができない僕を馬鹿にする人達が理解できないが、正しいのなら仕方ないとでも思える。僕自身は納得しないが、理解することはできたし、それである程度救われた。

 そもそも、僕が彼女なんて要らない!と言ったところで、虚勢であり見栄でしかない。甘んじて受け入れるしか道はなく、それを正当化するための手段として利用せざるを得なかった。

 だが、生まれながらにして生殖能力がない人々はどうなるのだろうか、生まれながらにして、生きることを否定される。彼らに対して人権とかそういった援護が続いているが、実際はそれ以前の問題で、ヒトとして認められる前に、生物としてさえ認められていないのか、とそう思った。

 僕は後悔した。矛盾に気づいているのであれば、定義を受け入れる必要なんてなかったと。自らの救いのために大勢を犠牲にしたようなそんな感覚になった。

 人間には意識がある。それ故、こうも悲しいのだが、解決策を練ることもできる。つまり、定義が成立していないことを何とかして示せばよいのだ。

 

 

 「ヒュームの法則」ーーその言葉を知ったのは大学に入ってからだった。これが利用できるのかは正直よくわからないのだが、「生物は子孫を残すことができる。」という事実が、生物の目的にすり替わっているのではないか?そう思えた。

 そうであるならば、教える義務が有るように感じた。それは、生物の教師へであり、僕を馬鹿にした同級生へであり、そしてなりより、生物と認められない多くの人へ。

 

 手始めに、僕は言う「生物の目的は子孫を残すことではないかも知れないよ」

同級生は答える。「先生と言ってる事が違うし、意味がわからない。」

こうした会話は相手を変え、場所を変え、幾度となく繰り返されたが、最終的に共感を得られることはなかった。

 

 ここに存在している人はある意味洗脳を受けている。ここに存在しているという事実がそれを示している。ここにいるということは親が子孫を残せたということを意味し、子孫を残しやすい遺伝子を保持していることを意味する。それは、良いか悪いかは評価基準ではない。ただ、広まりやすいかのみに焦点が置かれている。

 つまり、「生物の目的は子孫を残すこと」という文を盲目的に信じるという形質が優位に働いている。ある意味障害者だな、と皮肉が好きな僕は心の中でつぶやく。

 

 意識のない生物には届かない。

 

 

 

 

 

奨学金とかいう学生ローン

 

 

 最近?というか単に僕が大学生になってそういうことを考えるようになっただけかもしれないのだが、奨学金を返済することができない人が多くなっているという話をよく聞く。結構いろんなところで聞くのでソースは提示しないことにする(探すのがめんどくさいさい訳ではない)

 

 ここで、奨学金という単語の定義を改めて整理しておく。(wikiを使った)

"能力のある学生に対して、金銭の給付・貸与を行う制度。金銭的・経済的理由により修学困難とされる学生に修学を促すことを目的とすることも多いが、金銭的・経済的な必要性を問わず、学生の能力に対して給付されることもある。通常先進国では奨学金は給付奨学金をさす"

 

仕方ないので更に整理する。

 

①能力のある学生に対して金銭の給付・貸与を行う制度。金銭的・経済的理由により修学困難とされる学生に修学を促すことを目的とする

②金銭的・経済的な必要性を問わず、学生の能力に対して給付されることもある

 

 共通する点は「学生の能力に対して」という点である。学生の能力を担保にお金を貸している状況ということを改めて述べておく。(給付の場合には問題とならない)

そもそも、奨学金(特に①の意味において)は就学困難とされる学生に就学を促すための制度である。そこで、ここでは①における貸与の状況を想定して書く。

 

 想定される状況というのは、市場においては異常な状態であることは理解されると思う。なぜなら、金銭的・経済的に問題がある者に貸与することは返済されない可能性が非常に高いからである。しかし、学生の就学したい意思を尊重するために貸与を行うのである。貸与を受けた学生は返済する義務を負う。普通であれば返済するのは難しいが、この学生は大学に就学し、且つ能力のある学生であるため平均所得を上回る可能性が高い。端的に言うと返済される確率が非常に高い健全な投資先であるのだ。

 上記の例では、貸与する側、される側の利害が一致しており債権が焦げ付くことは少ない。繰り返しになるが、一見担保になるようなものが無くても、学生の能力(=将来性)が担保となりお金を借りることが出来るのである。

 

 


 

 もう一度、話を冒頭に戻すことにする。現在、奨学金が焦げ付くことが問題となっている。ではこれは何故なのか?

 もうほとんど答えは提示したように思う。つまり、日本学生支援機構が能力のある学生に貸与を行っていないということである。この機構から奨学金を借りている人ならわかると思うのだが、第一種と第二種奨学金が存在しており、一と二の審査基準というものは経済的理由によるものが殆どであり学生の能力は余り加味されていなように感じる。これは自分自身や周囲の人間から得た情報なので間違っているかもしれないがとりあえずこういうことにしておく。(補足すると第一種は無利子であり、第二種は卒業時点から利子が付くという違いがある。)

 因みに二というのは申請すれば基本的に通る奨学金である。こうしたことから、日本学生支援機構が学生に対して貸与を行い、結果的に焦げ付いているというのは至極当然の帰結であり、話題になるほど驚くべき点がないように思われる。

 


 

  では、態度を改めて能力のある学生に貸与を行うようにしたとする。こうなれば、奨学金の回収不能というのは少なからず改善されることは間違いがない。しかし、全盛期と比較するとやはり回収率は低下したままであると考える。

 その理由としては、現代が、大学全入時代と呼ばれる時代だからである。大学全入時代が示すことは就職活動においても自分と同じような大学生が多いということである。すなわち、単に大学を卒業したというだけでは付加価値は殆どなく、かと言って大学を卒業していないと取り合ってもくれないという時代だと推察できる。大学卒業ということはステータスではなく、最早前提となっている。

 かつて、有能な学生に貸与するということは保険が二重にかけられていた。それは、有能という点と大学生という点である。しかし、先程も述べたように、現在において大学生という事実には殆ど価値はない。こうすると、平均所得との乖離は縮小し、必ずしも健全な投資先とは言えなくなる。

(大学に入って卒業するまで学生がずっと有能であるならば、保険を二重にかけなくても良いと感じるが、自分の身の回りを考えるに・・・)

 

 


  

 ここで、奨学金の問題について解決策を考えるとすると、貸与をやめる、有能な人物にのみ貸与するということは容易に考えられる。だが、貸与をやめてしまうと大学全入時代に大学に行けないという人間が出てしまうため、やはり貸与であっても継続したほうが良いと考える。(実際は大学に行かなくとも色々就職する道はあるように思われるが、様々な方面から非難され結局は貸与することになると考えるため、結論だけを書いた)

 

 有能な人物を限定することはあまり難しくない。例えば、赤門の周りにいる人は有能である可能性が高い。そういう集団であれば、平均所得からの乖離は他の集団と比べてもずっと大きいと考える。

 結論を述べる。現在の奨学金の体系からはかなり遠ざかってしまうが、大学ごとに貸与し、焦げ付きがあれば、その大学がカバーするという体型を作ればある程度この問題は解決するということである。(これが許されるのかどうかは知らない)

 日本学生支援機構側の目的は恐らく有能であるが大学に通うことが経済的に困難である学生を通わせるということだと推測するので、その目的自体は達成されることになる。

 もう少し詳しく説明すると、大学はどれぐらいの金額を借りるかを独自に決定し、独自の基準で学生に貸与し、回収不能となった分は奨学金事業を通じて確保されたお金を用いてカバーするということだ。

 大学側は自身の学校に有能な生徒があまりいないと考えるならば、奨学金制度には参加できず、そういう大学は淘汰される可能性が高い。(そこに通う学生たちは有能ではなかったのだ。奨学金の定義をもう一度見てもらいたい)大学全入時代であればそういうことが起こっても特に問題はないように感じる。

 この制度になれば、大学側ももう少しきちんと教育しようと感じるだろうし、就活支援もしようと思うだろう。これまでの制度は、リスク分担の観点から見て少し違和感がある。