現実Frommの逃走

人に伝える技術を高めるために色々やってみてます。

この記事は英語を学んでいる人を馬鹿にするために書かれた物ではない

 

 私は英語が苦手で嫌いです。

 

ただ、英語は出来るに越したことはない。(できない方が良いことなんて殆どないように感じる)

 

 

 皆さんはどうですかね?できるから好きという人もいるだろうし、好きだからできるという人もいると思う。組み合わせを全て列挙する(多分2^3)のは鬱陶しいのでこの辺にしておくけどまぁ色んな人がいますよね。

 この記事は英語に反感を持った人が書いているという点は強調しておきたい。(これだけで、この先の内容はある程度推測されるものと思う)

 

 色んな人がいるからといっても、グローバル化というものは避けられないもので、就活などにおいて英語重視の傾向は一層強まるものと考える。

 

 ただ、グローバル化と共に技術進歩もしている。技術進歩によって他言語を自動的に翻訳するソフトが登場するのはそう遠くない未来のことだと思う。しかし、それはいつ起こるかということは明確ではなく、考慮することは少しやりすぎといった感覚がある。

(考慮する場合、コンピューターにとって変わられない職業を探すのが難しく、英語についてだけでなく、他の能力についても言及しなくてはならない)

  


 

  こういう状況を考えて欲しい

カンボジアに生まれた人とアメリカに生まれた人がいると仮定する。

(あくまで例であり、disではない)

 

貧困な国(カンボジア)は一人あたりGDPが低く、裕福な国(アメリカ)は高い。

この差はそのまま、所得の差に反映される。(三面等価の原則)

 

 

あなたは今、人事を担当している。人事の仕事は優れた人材をできるだけ安価で入手することである。今回の目的はカンボジア語と英語の両方の言語を使える人材を採用することにある。

 

そこに、2人の志願者がやってきた。一人は英語を習得したカンボジア人、もう一人はカンボジア語を習得したアメリカ人である。

 

先ほど述べたように、GDPは所得に直結する。つまり、カンボジア人は低賃金で労働させることができるが、アメリカ人はそうもいかないということである。

 

とすると、基本的に人事が採用すべきはカンボジア人となる。

 

この例から理解されるように、他言語と母国語における賃金の格差によって他言語を習得する意欲が決定されるということになる。

 


 

日本のような先進国の場合、上記の例のアメリカになるということである。

日本人で英語を武器にするということが意味することは、英語圏で日本語を学ぶ人間を相手にするということにほかならない。そして、殆どの場合、賃金の面から言って不利な戦いを強いられている。

 

この競争に勝つためには付加価値を付ける必要がある。

就活という競争で付加価値を付けるために英語を極めるということは、さらに付加価値を付ける必要性に迫られており、大変な覚悟が必要である。

 

(とりわけ、大学生のような平均賃金が高い集団では他言語を学ぶ利点は高卒のような平均賃金が低い集団より少ない)

 

そもそも、グローバル化とは人、物、サービスが国境を越えて~という定義だったと思うので、本来のあるべき姿と言った方がいい。

 

日本の企業がこぞってTOEIC〇〇点以上ということをしているが、これは完全に供給過多の方向へ向かっていくと予測される。(きちんと世界を相手にしている企業であれば)

 

 


 

  結論を言うなら、ある程度の英語が使えるようであれば、それ以上は重視する必要はなく、自己の専門に特化するのが良さそうということである。

 

Q&A

 

Q,英語を学んでいる人の付加価値とは?

A,それは、差別化できればなんでもいい。

そういう意味で大学生が自分の専門を付加価値として英語を武器にするという考え方は理にかなっているのかもしれない。

 

Q,専門的な会話とかコミュニケーションとか速度は大切では?

A,確かに大切だと思う。

ただ、専門的な会話や、速度を重視するなら翻訳家に任せたほうが良くね?

そういったことを軽視しているわけではなく、むしろ重視し、かつ困難であると思っているため、専門家に任せたほうがいい。(真にできるようになるための労力が大きすぎる)

 

Q,自分の専門を極める上で英語必要じゃね?

A,「ある程度の英語」が使えれば~

程度というのは人によって変わるので

英文学が専門なら、そりゃ英語できないとダメだと思うし。

数学者なら数式で語れよってなる。

 

Q,本社が日本にあり、英語も使える人といった場合、日本人が英語出来る方が良くない?

A,採用理由による。

国内のBtoBとかの業務ならそもそも英語殆ど使わないかもしれないし。

暗黙の前提として、他言語は母国語以上に上手くならない。としているけど、そうでないなら日本人である必要はない。むしろコストとして不採用にするべき。

 

Q,賃金に縛られない生き方というものがある

A,そうですね。

賃金が安くても、英語を使って仕事ができることに喜びを見いだせる人はそれでいいと思う。

 

 

というわけで、賃金格差による他言語習得のインセンティブというテーマで書いた。

 

1つの考え方としては割と面白いかと思う。

 

何回でも言うけど、この考えが絶対ではないし、僕は英語を勉強している人を馬鹿にしているわけではない。むしろ尊敬している。

 

英語が出来る人は、英語ができない人がそれを合理化するために必死になってやがると鼻で笑ってくれてこの話はおしまいです。

 

優しい優子の一生


 優子はドジで間抜けです。さらに、記憶力もよくありません。しかし、優しく真面目だったので、嫌われることはなくみんなから愛される存在でした。

 記憶力が悪いといっても優子は家が都市から離れた場所にあり、住みやすい町だったことぐらいは覚えています。 しかし、どういうわけかいつもとは違い今は調子よくポンポンと昔のことを思い出します。何故か強い後悔の気持ちもありますがさっぱり見当もつきません。



  小学生の頃、こんな課題が出ました。
「自分の名前の由来をパパやママに聞いてきなさい。」
名前の由来なんて考えたこともありませんでした。しかし、とりあえず言えるのは優子は自分の名前が嫌いだったということです。それは単純に「優」の文字が書きにくかったことが原因です。親友の未来は同様の理由で自分の名前が好きだと言っているので羨ましく感じます。

 家に着いて真面目な優子は早速、課題に取り掛かります。記憶力が悪いということも早めに済ます理由の一つだと思います。今日は金曜日なので、父が一番暇だと言っている時間でした。父に聞くのが料理を作っている母に聞くより早そうです。
「名前の由来ってなに?」
「それは、お母さんに聞いてくれ」
なんて無責任なんでしょう!優子はそれ以上の返答はせず、母へ聞きに行きました。
「ねぇ、名前の由来教えてよ!」
「それはね、優しい子になって欲しいという願いを込めたのよ」
きちんと答えてくれました。やはりこの人に付いていこうと心に誓います。優しいことはよいことで、期待されているのならそうなろうとも思いました。

 月曜日、名前の由来を発表することになりました。 優子は誇らしく
「私の名前の由来は優しい子になれるようにです」 と答えました。

未来は「未来を見通せる人になれるようにです」 と答えていました。

 名は体を表すとはよく言ったもので思い返してみれば、確かに未来は大きな事件の犯人を何度か当てていたことがあります。このことは、私を含め友達には相手にされなかったので大人も当然このことを知っている人はいません。
その日の放課後、未来は
「もっとキラキラした名前が登場するかも知れないね。そうなると由来を聞いて来い。なんて宿題でなくなるかも。」

 そう言っていました。未来の言っていることはさっぱり分からないので、文節で頷く技術を習得することができました。

 1ヶ月ほど経った道徳の時間では優しさとはどういうことかを学びました。小学校で一番記憶に残っている授業です。なにせ、自分の生きる意味を教えてくれるようなものなのですから。
「自分がされて嬉しいことを相手にしてあげなさい。それが優しさです」
 適当な議論をした後先生はこう締めくくりました。優子は何かがわかったような気がしました。人に優しくすることはとても素晴らしく、やはり良い名前なのだと再認識しました。
「先生は優しくないんだね」
ぼそっと言ったのはやはり未来です。先生は私達の嫌いな課題を毎日出してくる。きっとそういうことが言いたかったのでしょう。しかし、実際どうだったのかは未来にはもう会えないので分かりません。




 月日は流れ、キラキラネームという単語が巷を騒がせている頃、成長した優子と未来は同じ中学校へ進学することになりました。中学校は遠く、電車でないと通うことができません。とはいえ、電車は終点から乗ることができたので確実に座ることができました。

 徐々に満員になる電車の中で、見知らぬおばあちゃんがこちらへ押しやられてきました。きっと誰からも譲られることなくここまでやって来たのでしょう。優子は優しい子です。当然のように席を譲ります。こんなことは中学校へ行く回数だけ起こります。いえ、実際には帰りにも同じことが起こるので殆ど二倍なのでした。
 自分の足腰が悪いならラッシュ時は避けるべきであるし、他の交通機関を考慮するべきではないか。そうも考えられますが、優子は違います。人にされて嬉しいことをするために席を譲ります。

「優子は惨めだね」
「そうなの!私、それしか取り柄がないから。」
「やっぱり、優子は真面目だね」

 確かにこんな会話をしたような気もします。 一人を救うことで一人を救えてもそれ以外を救うことはできない。そんなことを考えていたのもこの時期です。この頃の優子は電車の中で立っている全員が席を寄越せと脅迫しているようにさえ見えていました。そのため、終点から立ち続けて学校まで向かうことにしました。これなら、文句は言われません。優しさを避けるようになってしまいました。罪悪感を感じてしまうからです。

優しいことは良いことであり素晴らしいことであるので、正義です。

しかし、優しさを提供できる場面は日常に溢れ返っています。その全てから請求を受け続けるのは耐え難いことでした。小学生のように非力ならば何もできませんが、中学生の優子には何でもできてしまいます。

「私ってどう見えてるの?このままでいいの?」
「そう、待とう。きっと分かる日が来るよ。」

一瞬の内に全てが理解できるような、そんな響きを持った言葉です。未来は一体どこまで分かっていたのでしょうか?私も、もう少しで分かりそうな気がします。それとも、もう答えは出ているのでしょうか。




 高校生になった優子、やはり電車通学です。これまでと同じように学校へ着くと、お弁当を忘れてしまったことに気づきました。財布も忘れてしまったようで、購買でパンを買うこともできません。我ながら本当に間抜けだと痛感しました。
昼休みになると、先生から呼び出しをくらいました。真面目だけが取り柄なのに呼び出されたのは相当なショックです。どうしてこうなったのか頭の中をどう検索をかけても引っかかる単語すらありません。それは、仕方ありません。優子は記憶力がないのですから。
 理由がわからないのに叱られに行くのは気分が落ち込みます。深呼吸をしてから職員室の扉を開けると、紙袋を渡されただけで解放されました。教室へ戻ってから中身を確認すると、忘れたはずのお弁当が入っていました。父は今日も仕事なのでやっぱり母なのだろうと、高校は結構遠いはずなんだけどなぁと、ここまでの道のりを考えてみました。

 単純な優しさに触れることは余りにも久しぶりで、お弁当を前にして数十秒見つめ合ってしまいました。この光景はクラスメイトからは奇妙に映ったことでしょう。優子はやはり優しさは大切で人を救うんだと理解しました。
 しかし、災難は続くもので、優子はその日の帰り道、ヤンキーに絡まれました。非力なのでどうすることもできず、ただ黙っていることしかできませんでした。苦痛な時間は過ぎるのが遅いです。こうやって記憶を思い出すときでさえ、相当長く感じます。ただ、サラリーマンがやってきて

「離れなさい!」

 こう言ってくれたおかげで、ヤンキー達は逃げて行きました。しかしながら、数十秒後にヤクザのような人を連れ帰ってきて私はリーマンと一緒に絡まれることになりました。 まるで、ドラマのようで立ち尽くしていた私にリーマンは

「早く逃げなさい」

 そう声を掛けてくれました。まるで、ドラマのようで少し笑ってしまいました。その後、走って逃げる途中振り返ってみるとリーマンは正面からボコボコにされていました。何故か背中のスーツが破れていたのできっと同じように誰かを助けてきたのだろうと勝手に推測しました。

  リーマンはその後なにか良いことがあったなら救われるのにな

 良いことをしたら良いことが悪いことをしたら悪いことがきちんとその人に降りかかればいいんだけど。そういうことを考えています。それは、他人にだけ向けられたものなのか自分にも向けられているのかは今になっても分かりません。
 リーマンは優しいし、そういう人にこそ報われて欲しい。そうならば、少なくともあのときに私と出会ってさえいなかったらボコボコにされることもなかったのではないのだろうか。
 人に会っても罪悪感を感じるだけだからいっそのことなるべく人と交わらない生活をした方が良いのではないか。そういう結論に至りました。たとえ、優子が世界で一番優しい人であったとしても、とりあえずこういう選択をしました。このことに関して誰が非難できるでしょうか。悪いことは何一つしていませんし、優子の一生ですから誰も口を挟むことは許されません。一つ言えることは、もし、世界一優しい人が優子であるならば社会は大きな損失をしたということです。




 あぁこれは昨日の出来事です。流石の優子もここからは完全に記憶しています。ただ、記憶しているからといって全てを記述できるというわけではないようです。余りに深い悲しみも、それに起因する行動もきっと本人の口からでさえ語れないでしょう。


 記憶力の悪い優子はこんなタイミングで、最後の瞬間に人生の全てを見る現象のことをゆっくり思い出し始めますが、もう全てが手遅れのようです。

 きっと、優子にとって心を許せる相手とは母のことだったのです。そういうわけで、母の優しさを受けることには罪悪感を感じることはありませんでした。よく考えてみれば甘えすぎていたのだと思います。


 高校二年生になってからは唯一の居場所である家にいることが殆どで、学校へは全く行かなくなりました。簡単に言えばニートとしての生活を送っていたわけです。今日という日はそんな日が始まってから丁度一年が経った日のことです。  
 
二階にある優子の部屋からでも聞こえる声で両親が何か議論をしています。

昔、私に関心がなかった父も一周年記念の今日はどうやら優子に興味があるようです。

母の叫ぶ声が聞こえます。

「なにが優子よ!二度とその名前を口に出さないで!」


好き嫌いをしてはいけないという言説

嫌いな食べ物がある子供がいるとして、あなたが親ならなんて言うでしょう?

「好き嫌いをしてはいけません」

はい。これですね。知ってます。

(そもそも、好きなもの食べてる時も同様のことを言えって感じだけど)

嫌いな食べ物を無理やり食べさせることに何のメリットがあるのか考えてみてもらいたい

水が嫌いなら問題だけど、通常の食べ物なら栄養が偏るという理由は弱いように感じる。 代替される食材が基本的にあるし、栄養バランスを考えるなら代替してあげるべきなんじゃないかとすら思える。

嫌いなもの食べさせるのって、かつてそうされたからとかいう感情的な部分が大半を占めていて、よく考えてみると、そうすべき必然性は乏しい。

嫌いなもの食べられないなら、美味しく食べれる人は美味しく食べることができるという優越感に浸ってくれ、それで満足してくれ。

私が食べると効用が上昇するから貴方も食べるべきみたいな考え方してる人どう考えても今迄殺されなかったのがおかしいと感じるほど

そもそも、美味しいなら嫌いだと思ってる人のものを奪ってあなたが食べる道を選ぶほうが社会全体の効用は上昇するしその方がいい。

好き嫌いをしてはいけないというの、人間にも当てはめられるのかな

もし、この言説が人間にも当てはめられるとしたら、街にあんなにカップルは誕生していないと思うけど

何の感情の起伏もなくフラットに生きろってことに近いことを言っていると解釈する

素直と自己中心的というのは非常に良く似た考え方だと思う

素直と自己中心的ってほぼ等号で繋げられそうな感覚がある。

しかし、素直だと言われて喜ぶ人はいるが、自己中心的だと言われて喜ぶ人はいない。

こちらがどのように受け取るかによって素直に感じるか、自己中心的に感じるかが決まると考える。 つまり、ある特定の人物を見てAは素直な人だと感じて、Bは自己中心的な人だと感じるということが起こりうるということが言いたい。

素直になれ≒自己開示をしろ

というのは自己開示しろ≒自己中心的になれという解釈もし得るということになる。

自己中心的であることを極度に嫌う人間は、自己開示することは稀なのではないだろうか。

なにがって心理テストで「自己開示しましょう!」と言われたとしてもしないにはそれ相応の理由というものがあるわけでお前が知った風な口を効くなといった感じ。

は???素直な人ってすごくいい人じゃないですか!!!どうして自己中なクソ野郎と一緒にするんですか??という問いには適当に答えることにします。

素直の定義は思ったこと相手にフィルターをかけずに伝えることだと思うから

フィルターをかけた時点で、素直と他人から言われたとしても、それは相手の都合を押し付けられているだけで、個人の感情ではない。

自己中心的は素直ではあるけれど、相手を不快にさせることを比較的多く考えてしまう性格だとも考えられる。

結局、快か不快かによって判断されているように感じる。

素直になれというのは、意訳するならば

私にとって都合の良い人間になれ

ということ

やたらネガティブキャンペーンしてる人って結構いる


 前回は少し調子に乗ったので今回は適当に書くことに決めた。 前回のように書くと時間がかかる割に伝えたいことが伝わらないような気がする。

 今回は、やたらに自分のことをマイナス評価する人について考える。 個人的な意見ではあるが、結構見かけるような気がする。意識高い系と同じぐらいかそれよりも多く見られる。  意識高い系はtwitterなどでは割と邪険に扱われているような感覚はあるが、自分を不当に低く評価する人に対してそういった感覚は持たない。両者とも、自分を不当に評価しているという点では違いがないので、この差は意外に思うべきなのかもしれない。





 高校や中学などで、「勉強した?」などという会話を繰り返し聞くことになるが、回答者は殆ど全くやそれに類する言葉を用いる。全く勉強せずに試験を迎えるアホはいない。つまり、嘘をついているわけで、相手もそれは承知していることと考える。(確かに、個人によって勉強をどれくらいすれば勉強したと言えるかは異なると思うが、一般的な範囲で捉え直して会話することぐらい皆できるから考慮しなくていい)  勉強した?と聞いた側が単に安心感を得たいがために聞いていると考えられるため、この回答がベストとも考えられそうだ。

 このような事例のように、自分を不当に低く評価するのならばまだ理解できるが、自発的にネガティブな発言を連発する人については質問に対する回答という形式を採るわけではないので、別の体系であると考える。




 そもそも、ネガる(ネガティブなことをする)人は自身の人間関係をどう考えているのだろうか

 自分がネガティブな発言をするにふさわしいほど劣位であるとすると、周囲の人間はどうしようもないクズに構ってくれる世間的に見て良い人と仮定できる。そこで、ネガる人は周りに不幸を与え続けていると考えることができるため、ネガる人はその理由があるなら、その集団から離脱することで、残されたメンバーの幸福度を上昇させることができるかも知れない。  むしろ、理由がなかったとしても、ネガティブな発言ばかりすることは不幸な感情にさせるのは間違いない。  実際は、優しいアピールするだけで十分な人も多くいるし、そういう関係では共生しているから何の問題もない。(傍から見て気持ち悪く感じる人がいなければ)  一番幸せなのは、自分も含めた全員がクズの集団に属していることだろう。まぁ、その場合、自分に世話を焼いてくれている人のことをクズだと認識しなくてはいけない。 

 意識高い系の援護をしたいわけではないが、意識高い系は方向としては至極真っ当なわけであって、それを非難するのはおかしい気もしている。ネガる人と意識が高い人とを比較するとしたら、私はよっぽど意識高いほうがマシだと思う。  (意識高い系を避難しているのは同様の結果を残せずにただ嫉妬したり、焦燥感に駆られたりしているだけという可能性もある)

無理やりまとめるとすれば、
自分のために相手を利用することがどれだけ許されるのかということ  

白馬の王子様症候群というものがあるらしい

 

 
私たちは完璧な愛を創る代わりに、

完璧な恋人を探そうとして

時を無駄にしている。

- トム・ロビンズ -

 

 

 私が最近読む本の殆どがこのようにイカした詩を文章の手前に書いているので、この点をリスペクトした。リスペクトという言葉を使うと実際はただのパクリだが、なんだか許されそうな感じがする。(そして、()を多用するという点も同様にリスペクトすることにする。エクスペクトしてね。)


「Aを世界一幸せにする!!結婚しよう!!!!111」


 一々言わないまでもこれが伝統的なプロポーズの言葉であることはご周知の通りである。高い確率でAは恐らく承諾し、一組のペアが生まれるだろう。
 だが、少し待ってもらいたい。世界一幸せにすることは果たして可能なのだろうか。(その通り、あなたに指摘されるまでもなく私は社会不適合者である。)私の考えでは、70億人の頂点を勝ち取るのはそう簡単ではなく、さらに、Aという最高の相手を見つけてペアになったBが世界一幸せになることはないということを示唆するため、主張しないほうが賢明である。


「Aを幸せにする!結婚しよう!!!」


 まともになった。これで婚約後に債務不履行で糾弾されることはない。(めでたし、めでたし)


 しかし、本当にそうだろうか。結婚して幸せになったペアとそうでないペアがいることを私は知っている。そもそも、あなたがAを幸せを最大化したいと考えるならば、あなたは即座に身を引き、キューピッドとしてAの新しいペアを差し出す方が良いのかもしれない。つまり、


「結婚しよう」


 やはり、変なことは言わない方がよかった。これでいい。(または、「Aを幸せにできるかどうかは分からないが、私はそのために精一杯努力する。幸せを最大化できると願うが、大抵の場合無理だと考えている。それでも良いのなら....」)

 



 ここで、A(あなた)にとっての最高のパートナーについて考えたいと思う。何かを考える場合、言葉を定義する必要があるが、最高のパートナーを定義するのは非常に難しいと考える。しかしながら、簡単に推測できることは、任意のXがそうでない可能性が高いということである。つまり、1/35億で表現される最高のパートナーが現在のパートナーである可能性は非常に低い。(この場合、70億が分母に来ることは珍しい)殆どの日本人は日本語しか上手く操ることができず、その結果、限定された領域でしかパートナーを見つける努力ができない。

 もし、Aが英語を話す人間を指すならば、同じように表現される"あ" や "Ӓ"よりは最高のパートナーとペアになる可能性が高い。(単にコミュニケーションを取れる可能性のある人数が多い)
 
 最高のパートナーとしての要素に同じ言葉を用いるという項目が入っているならばこういった話にはならないことを注意しておく。また、たとえ最高のパートナーでなかったとしても、クリスマスと大晦日を10日程過ぎてしまえば、その時点でのパートナーが最高のパートナーであることが多いとも言えるかも知れない。(女性はクリスマスケーキに例えられ、男は晦日蕎麦に例えられるらしい)つまり、これからコミュニケーションを取って~結婚までという費用と、かつての最高のパートナーを得られたときに得られた収益とが見合わなくなるからだ。

 



 最高のパートナーを見つけるのは不可能だと諦めるのはまだ早い。私はまだ、この言葉を定義したわけではない。
殆どの人が最高だとする世界ならどんなに幸せなことか!
 
 ☆ここからは論理の飛躍があると思う(そして、ここからが本題である)

 生物学的に言えば、恐らく最高のパートナーとは自身(パートナーのことではない)の遺伝子をより多く後世に伝えられることを意味する。(この解釈が間違っていないことを願う)

パートナーには端的に言ってこの2種類がある(当然、ヒトとしての性質を司る遺伝子は共有している)

①多くの遺伝子を共有してる(無性生殖に近い)
②全く遺伝子を共有していない(純粋な有性生殖)

①は自分の遺伝子を後世に伝えるという意味で、一見合理的に見えるが病気などによって一網打尽にされるリスクが高い。

②は一網打尽にされるリスクは低いが、一度伝えられる量がが少なくなってしまう。

①、②共に言い分がある。適当な式を作るならば、伝えられる遺伝子の割合をG、生き残る確率をRとして
①はG*R Gが80Rが50 ②はG*R Gが50Rが80

のように考えてみるとわかりやすいかも知れない。(わかりにくいかも知れない)実際の具体的な値は分からないが、
どちらにもある程度の合理性があると考えることができる。つまり、パートナーがどんな遺伝子を保持していたとしても最高のパートナーになり得るということになる。(遺伝子の共有以外にも遺伝子を後世に伝える遺伝子というものは数多くある。だが、それはここでは考慮しない。すぐ下で考慮している)

 完全に成熟した遺伝子プールでは、遺伝子が長い月日をかけて洗練されている。遺伝子プールは未だかつてないほど最高の状態にある。また、ある特定の遺伝子が現代まで生き残っているということは何らかの重要な戦略を保持していることが想定される。全ての遺伝子はこれまで淘汰されずに残ってきたエリート達だ。したがって、任意のXを選択することで最高のパートナーを発見することができる可能性がある。(オウム返し戦略のみで満たされた集団を考えてみて欲しい)

また、人間は何事にも意味を見出さなくてはいけない性質であるらしい。任意のXで良いならば選択することは非常に難しくなる。(自由研究が如何に夏休みを不自由にしたかを思い出してもらいたい)

こうした仮定が全て成り立っているときには
偶然を運命と名付け、盲目的になることは合理的ではないだろうか

運命に支配された白馬の王子様症候群は、超最先端という考え方ができる。

赤い糸を信じる信じないにかかわらず運命に従うことが合理的な行動である可能性がある。
 


 


 ここまで読んでくれた人は文頭を見た人の1/3になっているだろうか、それとも頭、胴、足に3分割されているだろうか。(0をこの式に使うのはやめて頂きたい。特に割る数)暇つぶし程度にはなったことを期待する。